日本人の物語01594【室町/西国/応仁の乱】島津内紛 牛山合戦
南九州の方はほとんど旅行したことがなく、史跡巡りしてみたいものです。もっとも、鹿児島県が売りにしている史跡の多くは幕末維新期のものでしょうが。
文明8(1476)年2月。当主・島津奥州家忠昌に対する反乱が始まりました。反乱を起こしたのは
〇山門院(鹿児島県出水市)を拠点とする島津薩州家国久
〇帖佐(鹿児島県姶良市)を拠点とする島津豊州家季久
〇三俣下城(宮崎県都城市)を拠点とする島津伯州家豊久
たちであり、つまり身内ばかりでした。彼らは
〇肥後国人吉(熊本県人吉市)を拠点とする国人・相良為続(さがらためつぐ:1447~1500)
〇大隅国菱刈(鹿児島県伊佐市)を拠点とする国人・菱刈道秀(ひしかりみちひで)
と結託して、当主に反旗を翻したのです。
この反乱がなぜ起こったのか、複数の説がありよく分かっていませんが、この時期に桜島の大噴火が起こっているので、火山灰による農業生産力の低下で政情が不安定化した可能性もあります。また、そもそも薩州家国久が平和的に忠昌に当主の座を譲ったというのが嘘かもしれません。
別の説では、相良為続が真幸院(まさきいん:宮崎県えびの市)を拠点とする北原貴兼(きたはらたかかね)と私闘を開始し、それを見た薩州家国久・豊州家季久が
「この機会に前々から対立していた北原を討つべきである」
と主張したところ、当主忠昌がこれを却下し、納得のいかない国久・季久は相良為続やその舅に当たる菱刈道秀と結託して主君に刃を向けたといいます。
さらに別の説によると、2月20日、牛山城(鹿児島県伊佐市)の島津三郎右衛門(しまづさぶろうえもん)という人物が、いきなり菱刈道秀の居城を襲撃してきたといいます。菱刈道秀は相良為続・島津薩州家国久・北原貴兼らに救援を要請しましたが、当主忠昌はなぜか三郎右衛門を支援し、ここに主君と家臣の争いが始まりました。
長期に渡るにらみ合いが続いた後、8月4日に牛山河原で
「相良為続・北原貴兼・島津薩州家国久・島津豊州家季久VS島津奥州家忠昌・島津三郎衛門」
の戦いが発生しました。この戦いでは決着がつかなかったものの、9月2日には牛山城が陥落し、当主忠昌の側が敗北しました。
いずれにせよ、文明9(1477)年4月に当主忠昌と反乱軍との間で和睦が成立しました。
2つの説がありましたが、相良氏と北原氏が前者では敵対している一方、後者では味方同士となっており、矛盾しています。真実はよく分かりませんが、当主たる島津忠昌に対する何らかの反乱があったこと、分家筋にひどく気を遣わねばならないほど当主の地位が不安定であったことは確かです。
島津の内紛はこれで終わらず、文明16(1484)年から17(1485)年にかけて再発するのですが、また時代が進んだときに説明したいと思います。
全然異なる複数の説が入り乱れているので、まとめづらいです。
