日本人の物語00574【鎌倉前期】83代土御門天皇
さて、兼実の娘・任子と通親の養女・在子の子作り競争については、建久6(1195)年中にその決着がつきました。8月12日、任子が女子を出産したのに対し、11月1日、在子が男子を出産したのです。その男子は為仁親王(ためひとしんのう:後の土御門天皇:1195~1231)と名付けられました。
在子が男子を出産したことで、近臣たちの多くは兼実に見切りをつけて、通親に接近し始めました。また、そもそも兼実は有職故実に造詣が深いものの政治的嗅覚は持ち合わせておらず、通親とは役者が違い過ぎました。
建久7(1196)年11月23日、中宮・任子は突如として内裏から退去させられ、11月25日には兼実が上表の形式すらないまま関白を罷免されてしまいます。そして後任の関白には近衛基通が任じられました。
一説によると、通親は兼実を流罪にまでしようとしましたが、後鳥羽天皇が
「そこまでの罪はないだろう」
と言ってこれを止めたといいます。
さらに兼実の一族にまで累が及びます。兼実の弟で天台座主を務めていた慈円も、同じく弟で太政大臣を務めていた九条兼房(くじょうかねふさ:1153~1217)も、それぞれ職を追われました。この九条兼実失脚は、丹後局と土御門通親が仕組んだもので、「建久七年の政変」と呼ばれています。
最大の敵を葬った通親は、養女・在子が産んだ為仁親王を即位させる工作を開始しました。力のある政敵がいない中、簡単に話は進み、建久9(1198)年1月11日、後鳥羽天皇は為仁親王に譲位しました。第83代土御門天皇です。
2歳の赤子が即位したことは前例がありますが、親王宣下がないまま即位するとは異例中の異例です。このことについて、通親は
「光仁天皇の例がある」
と説明しました。確かに奈良時代の光仁天皇は「白壁王」という名で親王ですらなかった状態から異例の即位となった人物です。
歌人として著名な藤原定家(ふじわらのさだいえ:1162~1241)は、当時は従四位上の因幡権介というパッとしない官職でした。定家は日記『明月記』に
「光仁天皇の例によるというならば、道鏡は誰なのか」
と通親への憤懣を記しました。光仁天皇は、道鏡によって世が乱れたせいで、即位するはずのない血筋から選ばれて即位したのです。つまり定家は
「今回の即位をそれに例えるならば、九条兼実が道鏡のように世を乱したとでもいうのか。世を乱したのはむしろお前ではないか」
と通親への怒りをぶちまけたのです。
