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日本人の物語00445【平安後期】平安後期総括

 治暦4(1068)年の後三条天皇即位から、白河・鳥羽・後白河の院政期を経て、治承4(1180)年に平清盛が天下を手中に収めるまでの112年間を見てきました。
 藤原摂関家に権力が集中した平安中期においては、その権力闘争の主な方法は「政敵に罪を着せて左遷させる」というものでしたが、平安後期になると露骨に武力が使われるようになり、敗者は死罪となったり流罪先で殺害されたりするケースが増えてきました。また、信西や平清盛のように、実力のある者が従来の相場観を覆して上位職に就くことができるケースが増えてきたといえます。
 特に注目すべき変化は、戦闘を主たる任務とする武士が力を握るようになった点でしょう。平安前期に臣籍降下して武士となった源氏や平氏は、地方の反乱や海賊の鎮圧で名を挙げるようになり、さらには荘園領主と国司の対立といったこの時代最大の社会問題に対し、武力を背景に仲裁することでその実力を認められていきました。その平氏の実力を、後白河は当初は利用するつもりで登用していったのに、いつの間にか後白河の想定を超える力を手に入れた清盛は、最終的には後白河を幽閉するという強硬手段に出て天下を治めるわけです。
 貴族政治から武家政治への転換こそが古代から中世への転換ですから、平安中期と後期の狭間こそが古代と中世の境界に当たるわけですね。
 さて、平安中期総括において、摂関政治が長く続かなかった理由について、「摂政・関白が娘を天皇に嫁がせ、男子を産ませる必要があるという偶然的な要素に頼る政治体制だったから」と説明しました。では、平安後期において院政が長く続かなかった理由は一体何だったのでしょうか。
 思うに、院政とは個性の強い上皇が武力を持った武士を自在に操ることで、荘園や家督をめぐる紛争を解決して権力を持つ点にその本質があります。ということは、皇室内における権力闘争は「いかに強い武士を味方につけるか」にかかっているわけです。鳥羽法皇や後白河天皇が平清盛・源義朝を味方につけたのに対し、崇徳上皇は源為義・平忠正しか味方につけられなかったために、敗北したのです。
 このような政治体制では、やがて武士の内部に個性が強く政治的センスを身に着けた者が登場すると、破綻し権力を奪われるようになるのは必至です。そして平忠盛・清盛という優秀な武士を2代連続で輩出した平氏が、結果、最高権力を手にしたというわけです。
 次章以降は、この治承3(1179)年に成立した平氏政権が、僅か6年で瓦解していく様を見ていくこととなります。

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