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日本人の物語01190【南北朝末期】細川派と斯波派の対立

細川頼之の立ち位置がだんだん微妙になっていきます。

 天授3/永和3(1377)年6月。細川頼之と斯波義将の対立が深刻化してきました。そのきっかけは越中国における所領をめぐる争いでした。
 この頃の越中守護は斯波義将ですが、義将自身は京にいてなかなか越中に出向く機会はありません。家臣を守護代として派遣して越中を治めていたわけですが、在地の国人達はなかなか守護代に従おうとせず紛争が頻発していました。これは越中に限らず日本全国どこでも起こっていた対立だと思われます。
 越中守護代は力でもって国人たちをねじ伏せようとします。守護代に敗れた国人たちが逃げ込んだ先は太田荘(富山県富山市)でした。ここは斯波氏と対立関係にある細川頼之の所領なので、ここに逃げ込めば守護代も手を出せまいと考えたのでしょう。
 ところが守護代の兵たちは強硬でした。構わず太田荘に乱入して国人たちを殺害し、荘内の家屋を焼き払ってしまったのです。
 この越中での大事件は、京に飛び火しました。この機にアンチ頼之派の面々が一挙に集まり、頼之を葬ろうとしたのです。
 8月6日、京の市中に細川派・斯波派双方の兵が集まり、その軍勢が京を駆け巡る音が響いたといいます。翌7日の明け方には火災が発生し、四条から六条にかけての広範囲の家屋を焼き尽くす大火事となりました。さらに8月10日には室町幕府の政所で細川派と斯波派の武士同士が乱闘に及び、死傷者が出ました。
 ここに至って、将軍義満が事態収束のため自ら動き始めました。頼之と義将を直接呼びつけ、兵を退くよう命じたのです。
 これまで頼之は圧倒的な権威で守護たちを抑え込んできましたが、今回は紛争当事者となってしまい、管領としての権限を発揮できずにいました。最終的に義満が両者を和解させ、戦乱は避けられたのですが、管領頼之の権威失墜は明らかでした。
 同じ頃、九州では頼之の盟友・今川了俊が快進撃を続けていました。8月12日には臼間野(熊本県南関町)の戦いで稙田宮(わさだのみや)以下菊池一族100人を討ち取りましたし、9月には島津氏久が本領安堵を条件に降伏して来ました。水島の変以来、南朝方についていた島津家がようやく幕府方となったのです。
 しかし了俊はかねてより薩摩の一揆衆である禰寝氏らに恩賞を約束していました。島津家の本領を安堵することは、禰寝氏との約束に違背するものです。了俊は禰寝久清への書状の中で
「菊池退治と平行して島津退治を行っても良いとは思ったものの、それはあなた方に大変な苦労をかけることになるので、やめておくことにした」
などと言い訳をしているのですが、あまりに不誠実な態度だと思います。

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