日本人の物語00494【平安末期】義高の最期
順序からいえば一ノ谷の戦いが先なのですが、分かりやすさを優先して順序を変え、先に木曽義高の悲劇について見ていきましょう。
義仲が頼朝と対決して敗死したことで、人質として送られていた義仲の遺児・義高の立場はひどく不安定なものとなっていました。義高は本来、頼朝の長女である大姫の婚約者として送り込まれてきたはずなのですが、義仲が敗死した今、その婚約は引き続き有効なのかどうかも微妙になってきたのです。
ちなみにこのとき、義高は11歳で大姫は6歳です。婚約という観念自体、まだ早い気がしますね。
義高と大姫は兄妹のように仲良く一緒の時間を過ごしてきましたが、まだ6歳の大姫は、義仲の死を聞いて「義高も殺されるのでは」と恐れました。
寿永3(1184)年4月21日。大姫は義高に鎌倉を脱出するよう薦め、手引きをしました。義高と同年代の男の子を用意して義高になりすまし、一方本物の義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだしました。
しかし、所詮は11歳と6歳の子供が立てた計画ですから、すぐに事は露見してしまい、頼朝は御家人たちを総動員して義高を探させました。義仲の遺臣たちが義高を担ぎ上げて大規模な反乱を起こす可能性があり、頼朝としてもこのまま放置することはできなかったのでしょう。
4月26日。義高は武蔵国入間河原(埼玉県入間市)で捕らえられ、藤内光澄(とうないみつずみ:?~1184)に討たれました。11年の短い生涯でした。
義高の死を知った大姫は、悲嘆のあまり食事ができなくなり、病に伏しました。こののち大姫はずっと精神を病み続けるのですが、婚約者を亡くすという経験は6歳の女の子にとってあまりに酷なものだったでしょう。
この頼朝の仕打ちに激怒したのが北条政子でした。6月27日、政子は
「夫の命令とはいえ、なぜ私に相談しなかったのか」
と怒り、藤内光澄を死罪に処し、晒し首としてしまいました。頼朝の命令に従っただけなのになぜ死罪となるのか意味不明ですが、当時の鎌倉は法治国家の観念もないこの程度の社会だったのでしょう。
さらに政子は、義高が討たれた場所(埼玉県狭山市)に社を建て、義高を弔いました。その社は現在「清水八幡宮」となり、義高を祭神として祀っています。
