日本人の物語01411【信広渡海】安藤氏の歴史 政季の悲運
いよいよ安藤家の話から武田信広の話へと転換していきます。
文安2(1445)年に安藤康季が病死し、享徳2(1453)年に安藤義季が戦死し、これにて下国安藤氏の本家は滅んでしまいましたが、実は安藤康季の弟・道貞(みちさだ)の系統がまだ生き残っていました。
話は遡りますが、嘉吉3(1443)年に下国安藤氏が蝦夷ヶ島に逃亡したとき、安藤道貞は兄に同行せず南部義政と和睦して、外ヶ浜(青森県外ヶ浜町)に住んでいたのです。この和睦の際に、安藤道貞の子・重季(しげすえ:?~1450)と南部義政の娘が結婚しました。
ところが、この和睦はいつしか壊れました。宝徳2(1450)年1月。南部義政の弟・政盛(まさもり)が外ヶ浜を攻撃してきたのです。両者が決裂した原因は不明です。
このとき既に道貞は死去しており、子の重季が当主を継いでいましたが、重季は戦死し、妻女と嫡子の政季(まさすえ:?~1488)は生け捕りになりました。
安藤政季は南部家の血を引いていたこともあり、助命されて田名部(青森県むつ市)に知行を与えられました。田名部は水軍の拠点として重要な地ではあるものの、ある意味南部家の傀儡になり下がったといえます。
結局のところ、南部家は最も利益を得られる十三湊の地を下国安藤氏から奪い、その分家筋の安藤政季を下北半島に住まわせて傀儡化したわけですから、かなりあくどいやり口といえます。
さて、傀儡として不遇の日々を送っていた安藤政季のもとに、武田信広(たけだのぶひろ:1431~1494)という流れ者の武士がぶらっと訪ねて来ます。アイヌ人の物語はこの偶然によって大きな転換点を迎えることとなるのです。
武田信広は安藤政季に気に入られ、客将として田名部城に住み込むようになりました。そしてどちらから言い出したのか、南部家の傀儡としての地位を捨て、新天地を求めて旅立とうという話になりました。享徳3(1454)年8月28日、二人は家臣の相原政胤(あいはらまさたね)・河野政通(こうのまさみち)を伴って蝦夷ヶ島へと渡っていきます。これが和人による北海道支配の始まりとなるのです。
この亡命の経緯や、武田信広の出自が謎だらけで、史料によって話が異なります。また、武田に注目した史料と安藤に注目した史料とで、蝦夷ヶ島に渡った時期も異なるのです。
どうも後付けで作られた話が多いようですが、本稿ではとりあえず主要な文献が語る武田信広の出自について説明していきたいと思います。次回からは武田信広の物語が始まります。
安藤政季は津軽半島を取り上げられて下北半島の先端に住まわされたわけですが、やはり当時としては津軽半島の方が交易上有利な土地だったのでしょうね。
