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日本人の物語01565【室町/西国/応仁の乱】千葉教胤の怪死

またまた長めの復習から始まります。

 次は肥前で起こった応仁の乱の代理戦争について説明せねばなりません。
 肥前千葉氏については、
〇胤鎮・胤紹の兄弟対決があり、文安2(1445)年8月に兄の胤鎮が弟の胤紹を討ったこと(01459回参照)
〇胤鎮の孫・教胤に対して胤紹の子・胤朝が寛正6(1465)年に今川胤秋と組んで反乱を起こしたこと(01493回参照)
については既に述べました。
 応仁の乱が始まると千葉教胤は東軍につきました。しかし肥前国内では大村家親(おおむらいえちか)が西軍方についたため、教胤は文明元(1469)年6月、大村を討つべく出陣しました。ちなみに大村氏といえば長崎県大村市を拠点とする戦国大名として有名ですが、この時点ではまだ在尾城(佐賀県鹿島市)を拠点としていました。大村氏が西に移動するのはまだ先のことです。
 ここからは『九州治乱記』に記された創作性の高いエピソードを紹介します。
 6月15日、千葉教胤は浜松という場所の社に到着しました。現在の松岡神社(佐賀県鹿島市)と考えられます。
 その日、社では祇園会が催されていましたが、千葉勢は社内に乱入して神事の儀式を妨害し、供物の魚や肉を食らうといった無法を犯しました。神主らは怒って制止しようとしますが、兵は言うことを聞きません。
 すると晴れていた空が突然曇り始め、雷鳴が轟きました。さらに激しい雨が降り始め、辺りは暗闇に包まれました。千葉勢の兵たちは混乱し、
「これは神罰ではないか。殺されるぞ」
と言って船に乗り込み、小城城を目指して逃げ帰りました。
 船がもう少しで港に着くというところで牛頭天王の怒りが炸裂し、千葉教胤の乗った船はたちまち転覆し、兵たちは一人残らず溺死しました。
 到底信じがたい話ではありますが、同時代の史料をみると千葉教胤が6月17日に六角川を越えようと船に乗っていたところ、船の転覆によって事故死したとの記録があります。一方、同時代の史料で「討ち死に」と記すものもあり、戦死なのか事故死なのかはよく分かっていません。
 教胤が子を持たないまま18歳で死去したため、この後またもや家督をめぐる争いが勃発するのですが、それはまた後で説明することになりそうです。
 なお、翌文明2(1470)年7月19日には、今川胤秋の子・義秋(よしあき:?~1470)が今川旧臣を集めて千葉氏打倒の兵を挙げましたが、植木(佐賀県佐賀市)で討ち取られました。滅亡の危機に瀕した肥前今川氏はかろうじて生き残り、その後「持永氏」と名を変えて戦国の世を生き残っていくのですが、それを紹介するのもまだ先の話になりそうです。

まるで記紀神話みたいな話が、15世紀にまだあるものなんですね。

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