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日本人の物語00722【鎌倉後期】最後の得宗・北条高時

 正和5(1316)年7月10日。北条高時が12歳となったことから、13代執権・普恩寺基時は高時に執権職を譲りました。5代時頼は18歳、8代時宗は16歳、9代貞時は12歳での就任で、北条得宗家の執権就任時年齢は代を追うごとに若くなっていますね。
 12歳で一人前とみなされるとは早すぎる気がしますが、実権を握っていた内管領・長崎円喜にとって執権とは単なる傀儡だったので、何歳で就任しようがどうでも良かったのでしょう。
 予想通り高時は政務に参画できず、円喜とその子の長崎高資(ながさきたかすけ:?~1333)が全ての実権を握ることとなります。高時は病弱な上、田楽(でんがく:音楽に合わせて踊るもの)や闘犬(犬同士を戦わせる見世物)に狂っており、政治に何ら興味を示さなかったというのですが、高時自身の性向がそうだったというより、円喜がそうなるように教育したためではないか、という気がします。
 北条高時のイメージは、後世の創作物により大きく歪められており、その実像を知ることは困難となっています。軍記物語『太平記』では独裁的な暴君として扱われ、歴史書『保暦間記』では政務に関心を持たない愚かな暗君として扱われ、歴史小説ではそれが入り混じったイメージで描かれてしまうため、
「政治に関心を持たない者がなぜ独裁者になれるのだろう」
との疑問が湧いてしまうのです。
 後世の創作物でなく、当時記録された原典を当たってみますと、北条一族で高時政権を補佐した金沢貞顕(かねさわさだあき:1278~1333)の日記に、高時の病状に一喜一憂する北条一族の様子が描かれていることから、高時が病弱だったことは事実と考えられます。また、貞顕の書状に
「田楽の外、他事無く候」(田楽のほかに興味をお示しにならない)
と書かれており、高時が田楽を愛好していたことは確かです。
 明治17(1884)年11月に初演された新歌舞伎『北条九代名家功(ほうじょうくだいめいかのいさおし)』は、孤独な悩みを抱えながらも愚かに振る舞うことしかできない悲劇的な高時の姿が写実的に描かれ、大流行しました。この高時の人物像は後世に大きな影響を与え、大河ドラマ『太平記』でも、
「愚鈍ながら芸術を愛し、長崎円喜・高資父子から離れて自立を試みるも失敗し、やがて幕府滅亡に殉ずる」
という高時の悲劇的な生涯を片岡鶴太郎が好演しました。
 しかし、高時の描かれ方はいずれも幕府滅亡というゴールから逆算して作られたもののように思われます。実際には高時は病弱ながらも有能な政治家だったかもしれず、後世に勝手にキャラクターが確立されてしまうのは可哀想な気もしますね。

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