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日本人の物語00938【南北朝最初期】南朝2(97)代後村上天皇

 延元4/暦応2(1339)年8月9日に後醍醐天皇は病に倒れ、その病状は日に日に悪くなるばかりでした。
 忠運(ちゅううん)という僧が天皇の枕元で
「今はとにかく、退位されて過去の宿命や煩悩をお捨てになることが必要です。最期の瞬間に何をお考えになるかによって、来世での生が変わるといわれておりますから」
と言うと、天皇は苦しそうな息で、
「私は生まれ変わっても朝敵を全て滅ぼして天下太平の世を作りたいと思うばかりだ。私が死んだら、義良に皇位を継がせたい。そして義貞や義助の子孫に不義がなければ忠節な臣下として仕えさせ、天下を鎮めて欲しい。私の骨はたとえ吉野の苔に埋もれるとしても、魂は常に北の宮殿の空を見ていたいと思う。もしこの命に背くならば、その君主は皇位を継ぐべき者ではなく、家臣もまた忠義の家臣ではない」
と言い残します。
 8月15日には義良親王に譲位し、翌8月16日に稀代の帝王・後醍醐天皇は遂に崩御しました。崩御の際には左手に法華経を持ち、右手には剣を持った状態だったといいます。左手には極楽往生するための経典を持ちながらも、右手には剣を握って敵を滅ぼそうという気持ちを表しています。普通は出家してから往生するものですから、この死に様は異様です。
 死に臨んで敵を倒したいという思いは、極楽往生を妨げる「煩悩」に当たると思うのですが、果たして後醍醐天皇は極楽往生できたのでしょうか。実に欲張りな後醍醐天皇らしい最期です。
 諡名は、後醍醐天皇がいつも手本として仰いでいた醍醐天皇にあやかって「後醍醐」となりました。これは本人の意向によるものといわれています。
 さて、即位した義良親王は後村上天皇となりました。醍醐天皇の子として親政を引き継いだ村上天皇にあやかって、諡名を「後村上」にしたわけですね。
 こうして南朝は、三木一草に北畠顕家・新田義貞といった主たる武将を全て失った上に、主役である後醍醐天皇をも失ってしまったわけです。もはや南朝の零落は誰の目にも明らかでした。生き残っている主要人物は北畠親房だけです。
 ここから後村上天皇が必死に巻き返しを図ります。頼りになる武将といえば、
・新田義貞の弟に当たる脇屋義助と、その子の義治
・新田義貞の次男に当たる義興と、三男に当たる義宗(よしむね:1331?~1368)
・北畠顕家の弟に当たる顕信
・楠木正成の長男に当たる正行と、三男に当たる正儀(まさのり:1333?~1388?)
といったところでしょうか。少々知名度では劣る顔ぶれですが、今後は彼らが活躍していくことになります。

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