日本人の物語01195【南北朝末期】康暦の政変 頼之追放
早く現代を書きたい、という意欲が強くなっています。でも同時並行で現代編の連載など始めようものなら、南北朝・室町の執筆が進まなくなるに決まっているので、無理そうです。
土岐・京極赦免から1ヶ月経った天授5/永和5(1379)年閏4月14日。この日は足利義満にとって最大の屈辱の日となりました。朝から斯波義将・土岐直氏(ときなおうじ:1331~1380)・京極高秀らの軍勢が将軍御所を取り囲んだのです。ちなみに土岐直氏とは頼康の弟に当たります。
彼らの要求を記した書状が義満の元に届けられました。そこに書いてあったのは、管領細川頼之の罷免と四国への追放でした。
思えば、観応の擾乱においても同様の状況が生じたことがありました(00996回参照)。高師直が直義罷免を求めて将軍御所を取り囲んだのです。こうした行為は「御所巻」といって室町幕府の恒例行事のようになっていくのですが、室町殿の権威の弱さを象徴するものといってよいでしょう。
義満はやむなく、父とも仰ぎ全幅の信頼を置いていた頼之を追放することに決めました。頼之はそもそも自分から辞任しようとしていたわけで、恐らく権力への固執はなかったのでしょう。すぐに荷物をまとめて一族郎党引き連れて四国へと帰っていきました。
閏4月15日には、頼之と対立して左遷されていた春屋妙葩が京に呼び戻されました。その後まもなくして、春屋妙葩は南禅寺住侍という禅宗最高位に就きました。あまりに露骨な反頼之人事です。
さらに閏4月23日には、斯波義将が第3代管領に返り咲きました。追放されていた土岐頼康は、伊勢守護職を獲得して政界に復帰します。頼康はこれで美濃・尾張・伊勢3ヶ国の守護となり、畿内近辺の最大勢力となりました。
こうして12年間に及んだ頼之時代は終焉を告げました。将軍職の無力を思い知らされた義満は、今後は守護たちに権限を与えない政権運営を心掛けるようになります。
この政変で政権を獲得した斯波派の面々と、その任国は次のとおりです。
①斯波家(越前・越中)②土岐家(美濃・尾張・伊勢)③佐々木京極家(近江北半国)④山名家(丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・隠岐・備後・美作・紀伊・和泉)⑤大内家(周防・長門・石見)⑥渋川家(摂津)
一方、割を食った細川派の面々は次のとおりです。
①細川家(阿波・讃岐・土佐・淡路)②富樫家(加賀)③一色家(若狭・三河)④今川家(駿河・遠江)⑤佐々木六角家(近江南半国)⑥赤松家(播磨・備前)
佐々木家は古くは頼朝決起に応じた佐々木四兄弟(00461回参照)から始まりますが、この頃に京極家と六角家に分裂していました。有名な佐々木道誉は京極家に属します。
右腕たる頼之を取り上げられた将軍義満ですが、ここから守護たちの権力を上手く拮抗させ、その上に立とうと画策し始めます。それが功を奏するかどうか、次章から見ていくことにしましょう。
