日本人の物語01378【室町/義教期】結城合戦 二つの結城氏
茨城県結城市に行けば結城合戦に関する史料が展示されているのでは、と思って調べてみたのですが、どうもウェブサイトを見る限りでは、結城紬(ゆうきつむぎ)を始めとする美術品の展示ばかりのようです。行ってみたら歴史史料もあるのかもしれませんが・・・。
持氏の反乱(永享の乱)は3ヶ月程度で鎮圧されましたが、ここから「結城合戦」と呼ばれる長い残党勢力との戦いが続きます。
持氏とその嫡男・義久は自害に追い込まれたものの、持氏には他にも男子がいました。
・春王丸(しゅんおうまる:1430?~1441)
・安王丸(やすおうまる:1431?~1441)
・永寿王丸(えいじゅおうまる:後の足利成氏:1438~1497)
この3人がいかにして鎌倉から脱出したかは不明ですが、持氏が自害した直後に春王丸と安王丸は日光山(栃木県日光市)に逃れ、持氏派の武将たちに匿われていたようです。
そして永享の乱が鎮圧されて1年ほど経った永享12(1440)年3月3日、春王丸・安王丸を奉じた岩松持国が木所城(茨城県桜川市)にて挙兵しました。持氏を自害に追い込んだ山内上杉憲実・扇谷上杉持朝の討伐が目的でした。
新たに関東管領に就任したばかりの(幕府は就任を認めていないとの説もありますが)山内上杉清方は討伐軍を派遣します。先陣は武蔵守護代・長尾景仲です。この景仲は山内上杉家の家宰を務める武士であり、その卓越した政権運営能力で主家である上杉氏よりも存在感を発揮することとなる人物です。
長尾軍が近づいてくると、岩松持国はさらに味方を集めるため3月21日に結城城(茨城県結城市)へと入りました。ここは下総結城氏朝(しもうさゆうきうじとも:1402~1441)の居城です。
さて、結城合戦の主役である下総結城氏朝が初登場しました。そもそも結城氏は下総国結城(茨城県結城市)を治める氏族であり、隣接する下野国小山(栃木県小山市)を治める小山氏と良好な関係を結んでいました。
話はさかのぼりますが、小山義政の乱で小山家の本家が滅亡した際、小山の名が失われるのを惜しんだ下総結城氏9代当主・基光は、嫡男・満広(みつひろ:1380~1416)に下総結城家を継がせた一方、次男・泰朝(やすとも)に小山氏を継がせ、小山泰朝と名乗らせました。
ところがその後、満広が子を持たないまま死去して下総結城家が絶えてしまいます。そこで今度は小山泰朝が子・氏朝を結城城に送り込み、結城氏朝と名乗らせて当主に据えました。これが今回登場した下総結城氏朝なのです。
一方、結城氏といえば南北朝時代に活躍した結城宗広とその長男親朝・次男親光を思い出す人もいるでしょう。この3人は白河結城氏といって、福島県白河市を拠点とする一族です。下総結城氏と白河結城氏は鎌倉時代まで遡ればつながるものの、血縁はかなり遠いです。
実は白河結城氏5代当主も結城氏朝という名で、持氏派の武士として何度か登場しました(01323等参照)。2人の結城氏朝が同時代に別陣営で戦っているわけで、かなりややこしいので本稿では「下総結城氏朝」「白河結城氏朝」などと呼んで区別することにします。
結城市は通過したことはあるけど降りたことがないんです。行ってみようかなあ。
