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日本人の物語01246【室町/義満期】義満、太政大臣となる

義満の恐ろしさが次々と出てきますね。歴代為政者の中でも特に絶大な権力を持った人物だったと思います。

 応永元(1394)年10月24日。関東管領の上杉憲方が死去しました。憲方の長男・憲孝(のりたか:1366~?)が継いだものの病のため1ヶ月で辞任しました。憲孝には弟の憲定(のりさだ:1375~1413)がいたもののまだ若かったため、後任は従弟の上杉朝宗となりました。
 ちなみに憲方は初代関東管領として権勢を誇った上杉憲顕の子であり、いわば上杉家の本流です。彼らは鎌倉の山之内(やまのうち)に居を構えたので「山内上杉氏」と呼ばれました。一方、朝宗は憲顕の弟・憲藤の子であり、彼らは鎌倉の犬懸(いぬがけ)に居を構えたので「犬懸上杉氏」と呼ばれました。
 さて、12月17日には義満は嫡男の義持を元服させるとともに、将軍職を譲りました。長男の尊満(そんまん:1381~?)は生母の身分が低かったためか早い段階で出家させられ、次男は夭折していたため、三男の義持が嫡男となったようです。義持は将軍職就任と同時に正五位下に叙されましたが、元々は従五位下になる予定だったのを、義満が不満を表明して急遽変更させられたとのことです。
 そして将軍職を引退した義満は、12月25日に公家の最高官職である太政大臣となりました。武家でありながら太政大臣まで上り詰めたのは平清盛以来です。
 この人事に摂関家が反対した際、義満が
「ならば今の五摂家とは別に、斯波・細川・畠山・六角・山名を五摂家にしても良いのだぞ」
と恫喝したとのエピソードがあります。藤原氏が摂政や関白の座まで奪われそうになったとの話ですが、さすがに創作のような気もします。
 そして応永2(1395)年1月7日、太政大臣拝賀の儀が行われました。これまでの義満の昇進に関する儀式を見ますと、
・天授5/康暦元(1379)年7月25日の右大将拝賀の儀では、殿上人37人が前駈(先導)し、公卿21人が扈従。
・天授7/永徳元(1381)年7月23日の内大臣就任時の大饗の儀では、28人の公卿のうち26人が出席。
といった記録がみられますが、太政大臣になった義満は更なる伝説を作ります。現任の公卿31人の全員が、つまり関白の一条経嗣を含めて全員が扈従したのです。拝賀の儀で関白が扈従するなど前代未聞のことです。さらに前駈した殿上人の数は60人で、その行列は数百メートルに及び、室町第から内裏まで遠回りする必要があったといいます。
 さらにこのとき義満は、宮中を牛車で通行してよい「牛車宣旨」という特権を最年少の38歳で受けました。牛車宣旨は、本来は高齢により歩けない公卿に対して与える特権であり、歩く能力があるにもかかわらずこの宣旨を出すことは公卿の中でも特別な人間と認めることでした。義満はあらゆる点で特別な公卿となったのです。

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