日本人の物語01567【室町/西国/応仁の乱】権大納言の横死
高貴な公家が戦闘に巻き込まれるという珍しい事件です。
大内軍3万人が上洛してきた際、摂津国人・池田充正がそのあまりの勢いに恐れをなして西軍に寝返ったことは既に述べました。ところが細川勝元が働きかけた結果、池田充正は再び東軍方となりました。
西軍としては、この裏切りを捨て置くわけにいきません。大内軍は文明元(1469)年7月15日、池田城(大阪府池田市)を包囲しましたが、東軍方から赤松政則が救援に駆けつけたこともあり、この籠城戦は3ヶ月も続きました。
この頃大内軍は兵庫港をも占領していましたが、領国の備前に帰っていた東軍方・山名是豊は、赤松・池田を救援するため10月16日に兵庫港を攻撃しました。山名是豊が多くの国人を引き連れていたこともあり、3日間に渡る戦いで大内軍は敗走していきました。兵庫港が落とされたことで、池田城を包囲していた大内軍も逃亡してしまいました。
この兵庫港での戦いは大きな悲劇をもたらしました。
10月17日の攻撃で、山名方の宇野政秀(うのまさひで:1421?~1502)の軍が福原に乱入したときのことです。長槍を持った兵士が福厳寺(神戸市兵庫区)に押し入ったところ、そこに立派な装束を来た高貴な人物がいました。兵士は
「これは西軍総大将の今出川殿(足利義視)に違いない」
と思って刺したところ、その人物は少しも抵抗せず「南無西方極楽世界阿弥陀仏」と唱えて死にました。
この人物は、なんと権大納言・一条政房(いちじょうまさふさ:1443?~1469)でした。前年9月に前関白・一条教房が戦乱を避け、長宗我部文兼を頼って土佐国幡多中村(高知県四万十市)に移住した(01556回参照)ことを受けて、子の政房もまた土佐を目指していたのです。
政房の祖父・一条兼良はこの事件を奈良で聞き、
「とても死ぬる 命をいかで 武士(もののふ)の 家に生れぬ 事ぞくやしき」
(どうせ死ぬ命ならばなぜ武家に生まれなかったのか、残念だ)
と詠みました。父・教房も相当なショックを受けたはずですが、特にコメントは記録されていません。この事件は東軍・西軍双方の武将を悲しませ、彼を殺した兵は後に自害したとも出家したともいわれています。
ちなみに一条教房は応仁の乱が終結した後も中村の地に住み続け、文明12(1480)年10月に死去しました。その子・房家(ふさいえ:?~1539)以降は戦国大名として生きていくこととなります。
何度か話しているように、公家から戦国大名になったのは伊勢の北畠家、飛騨の姉小路家、そして土佐の一条家の3家です。
