日本人の物語01501【室町/西国/大乱前夜】畠山義就上洛
「大乱前夜」というタイトルにふさわしい感じになってきました。
伊勢貞親という共通の敵が消えたことで、政界は細川勝元と山名宗全、二つの勢力に二分されました。両者の対立はここから本格化します。前述のとおり、宗全は畠山政長を支援するのをやめ、その代わりに畠山義就を支援し始めます。
その義就は文正元(1466)年9月15日には嶽山城を攻撃し始め、17日にこれを陥落させました。11月になると、大和国においても義就派の越智家栄・古市胤栄と政長派の成身院光宣の戦いが、十市遠清(とおちとおきよ:?~1495)の仲介で和睦することとなりました。幕府は明らかに、反逆者を討伐する力を失っています。
そして12月24日。宗全から援助を受けられることを知った畠山義就は、いよいよ入洛して千本釈迦堂(京都市上京区)に布陣しました。京の住民たちは、9年間も幕府に抵抗し続けた武将・義就を一目見ようと、千本釈迦堂前にひしめき合いました。
そして義就は宗全の手引きで将軍義政への謁見を許されました。9年も反逆した人間が将軍に謁見できるときが来るとは誰も思わなかったでしょう。
その後宗全の館で催された酒宴の場で、義就は
「今回、私が幕府に出仕できるようになったのは、ひとえに宗全殿のおかげです」
と感謝の意を述べました。その翌朝、千本釈迦堂の門には
「右衛門佐 いただくものが 二つある 山名が足と 御所の盃」
という歌が書かれたといいます。「右衛門佐(うえもんのすけ)」とは義就の官職のことで、「足」とは金銭のことでしょう。
以上みてきたとおり、宗全は勝元との連携を打ち切って敵対に踏み切ったわけですが、そんな中12月25日に勝元の実子・聡明丸(後の細川政元:1466~1507)が産まれました。聡明丸の母は山名熙貴の娘にして宗全の養女となった春林寺殿ですから、皮肉にも細川・山名両家の血を引く男子が誕生したわけです。
聡明丸の誕生は両家の対立を和らげるどころか、むしろ激しい対立を招きました。というのも、実子がなかなか産まれなかった勝元は、既に山名宗全の実子・豊久(とよひさ:1453~1522)を養子にもらっており、その豊久を嫡子に据えようとしていたのです。実子・聡明丸が誕生したことで勝元は養子・豊久を廃嫡し、なんと出家させてしまいました。豊久と聡明丸、いずれも山名家の血を引く男子ではありますが、豊久は宗全の実子であるのに対して聡明丸は「宗全の又従兄弟である熙貴の娘が産んだ子」であり、遠縁ですからこちらの方がマシというわけです。それほどまでに、勝元による宗全への敵視は激しかったのでしょう。
豊久が出家させられたことを知った宗全は、これを宣戦布告と受け取りました。これが決定打となり、細川勝元と山名宗全の両雄はいよいよ対決に向かうこととなります。
これまで宗全の方から喧嘩を吹っかけていたのに、最後の一手は勝元によるものでした。
