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日本人の物語01358【室町/義教期】鎌倉府からの謝罪使節

実はここのところ、執筆が全く進んでいません。まあ来年末くらいまでは書き溜めた貯金があるから大丈夫ですが、そろそろ執筆作業を再開しないとまずいです。

 さんざん敵対的行動をとっている持氏が、突如として送り込んできた謝罪使節・二階堂盛秀の扱いをめぐって、幕府高官たちはひどく頭を悩ませました。そもそも二階堂に将軍義教との面会を許すべきかどうかについても議論がなされました。
 篠川公方満直は
「御対面のこと、然るべからず」
と反対する書面をわざわざ送ってきていましたし、幕閣の中にも慎重意見が多かったようです。二階堂はなかなか将軍への謁見が許されないまま、長期間留め置かれることとなりました。
 永享3/正長4(1431)年4月11日。義教の意を受けた管領・斯波義淳は、二階堂に持氏名での罰状の提出を指示しました。罰状とは何らかの誓いを立てて、破れば天罰を受ける覚悟がある旨を記載した書状のことで、
「京都御扶持衆(東国で幕府に従う武士たち)を勝手に討伐しない」
と誓って提出せよというわけです。二階堂は難色を示しながらも一応は承諾し、持氏に申し送ることを約束しました。
 ところがその後、義教は後出しで罰状に記載すべき事項を追加し、これを記載しなければ二階堂に対面しないと述べました。追加された事項は次のとおりです。
・那須太郎・山入祐義・白河結城氏朝の討伐をやめること
・持氏に敗れて自害した上総守護・宇都宮持綱の遺児・等綱(ひとつな:1420~1460)が家督も守護職も奪われたまま放浪生活を強いられているので、これを復権させること
・幕府が篠川公方満直を支援することを承認すること
 宇都宮の一件は持氏にはなかなか受け入れがたい条件だったでしょう。宇都宮持綱は幕府に肩入れして持氏と敵対し、敗れた人物です。持氏は持綱の嫡男であった等綱を追放し、庶流の宇都宮家綱(うつのみやいえつな)を擁立し家督を継がせました。家督を奪われた等綱は宇都宮を脱出して諸国を流浪し、篠川公方満直の庇護下に入ったのです。持氏としては、これまで支援してきた家綱のはしごを今更外すわけにもいきません。
 盛秀は困惑しながらも持氏にこれらの事項を申し送り、返事待ちとなりました。
 4月15日には関東管領憲実が細川持之(ほそかわもちゆき:1400~1442)に馬を献上しました。謝罪のため、次期管領と目される有力者・持之の機嫌を取ったのでしょう。
 あくまで強硬な義教ですが、この後思わぬトラブルが起こり、持氏と和睦せざるを得なくなります。

都鄙関係は悪化するかと思えば和睦しそうになったりして、一進一退といった状況ですね。

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