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日本人の物語01677【室町/西国/六角征伐】明応の政変 将軍出奔

創作っぽいエピソードだなと思って出典を調べてみると、同時代を生きた人物の日記だったりします。つまり少なくとも同時代の人は事実だと信じているわけで、若干信憑性が高いといえます。


 明応2(1493)年5月6日には、義材が持っていた「小袖」と呼ばれる具足が義澄に渡されました。「小袖」は足利家の当主が代々所有するものですから、つまり足利家の家督が譲渡されたわけです。通常は家督=将軍職ですから、事実上将軍職を取り上げられたことを意味します。
 そして「小袖」さえもらえばもはや用はないとばかりに、義材は殺されかかります。この日の晩、夕食を口にした義材は苦悶し、薬をもらってどうにか命を取り留めました。義材を殺すことまでは企図していなかった政元が驚いて調査させたところ、給仕係の一人が
「毒は富子から渡された」
と白状しました。
 政元は、龍安寺への軟禁では義材の命が危ないと考え、身柄を政元被官の上原元秀の屋敷に移すこととしました。義材の身辺には木阿弥(もくあみ)という僧だけが近づくことを許され、世話をすることとなりました。
 以上の経緯は『大乗院寺社雑事記』に載っているのですが、興福寺大乗院の僧たちは富子嫌いで有名ですから、富子による毒殺云々の話が信用できるかどうか分かりません。
 さて、政元は義材を小豆島(香川県小豆島町)に流罪とするべく準備していました。さすがに将軍を殺してしまうのはためらわれたのでしょう。
 ところが6月29日の嵐の夜、義材は妹・祝渓聖寿(しゅくけいしょうじゅ)の面会に乗じて、木阿弥の手引きで脱出してしまいました。木阿弥はすっかり義材に私淑してしまったらしく、
「再び運が巡って来られたら、私の子孫をお取り立てください」
といって義材を見送り、その後も牢で義材の世話を続けているふりをしていました。
 義材の脱走が露見したのは10日ほど経った頃でした。細川家は木阿弥を拷問にかけて義材の行き先を知ろうとしますが、口を割らなかった木阿弥はそのまま斬首されてしまいます。
 ちなみにこの木阿弥の子は、15年後に将軍に返り咲いた義材によって畠山の姓を与えられ、畠山順光(はたけやまのぶみつ:?~1527)として重用されることになります。
 その頃義材は、越中国放生津(富山県射水市)へ下向し、畠山政長の重臣だった越中守護代・神保長誠に迎えられていました。これ以降義材は「越中公方」と呼ばれます。
 9月21日。義材は神保長誠の邸宅で、将軍義澄・管領政元を打倒するべく旗揚げを行いました。こうして将軍家が2つに分裂し、いよいよ戦国時代が到来するというわけです。

戦国時代とは、「自称将軍が世の中に二人いた時代」とまとめることもできるかもしれませんが、みんながその自称将軍を擁立して戦ったわけでもないので(どうでも良い存在だった)、まとめ方としては不適切かもしれません。

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