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日本人の物語01451【室町/西国/大乱前夜】富樫兄弟の内紛

義経が安宅の関(石川県小松市)を越える際に関守を務めていたのは富樫泰家でしたが、その子孫がなおも加賀国を治めているんですね。

【②加賀国における富樫教家・泰高兄弟の争い】
 かつて義教は、加賀守護の富樫教家を引退させ、その弟の泰高に後継に据えたことがありました(01383回参照)。義教お得意の気まぐれ人事で、教家は何の咎もないのに守護の座を追われました。
 しかし義教が横死すると、畠山持国はこの人事を元に戻します。とはいえ、教家が高齢だったためか、後任は教家の子・富樫成春(とがししげはる:?~1462)となりました。
 守護職を奪われた富樫泰高はもちろんこの人事に納得せず、加賀国から退去することもせず、在地勢力を味方につけて頑強に教家・成春父子に抵抗しました。かくして加賀国は内戦状態に陥ってしまいます。
 加賀の内紛は翌嘉吉3(1443)年に新たな展開を見せました。幕府が教家・成春派ばかり支援することに不満を持った泰高派の加賀守護代・山川八郎(やまごうはちろう:?~1443)が、教家・成春派に属する富樫泰成(とがしやすなり)と武力衝突したのです。泰成は教家・泰高の弟に当たりますが、どうやら教家とつるんでいたようです。
 山川八郎は敗北して京に逃亡しますが、諦めず今度は畠山持国襲撃を計画しました。ひどく冷静さを欠いた計画です。現役の管領を襲撃するとなると、家の取りつぶしは避けられないでしょう。
 過激化した山川八郎を止めたのは、味方である泰高派でした。つまり畠山持国と敵対する細川持賢や、義教未亡人の日野重子らが山川を説得したため、山川は計画を思いとどまり、泰高の助命を条件に自害しました。
 山川は死んだものの、教家・成春派VS泰高派の争いは未だ終わりません。
 文安2(1445)年に畠山持国の後任として管領に就任した細川勝元は、持国とは逆に泰高を支持し、教家を越中に追放してしまいました。将軍義政がそれに待ったをかけて教家支持を表明すると、勝元は怒って「管領をやめる」と言い出し、慌てた義政が撤回するという一幕もありました。
 文安4(1447)年5月に、泰高派の敗色濃厚を悟った勝元は、
「富樫成春が北、泰高が南で半国ずつ守護を務めるのはどうか」
と折衷案を提案しました。確かに近江などいくつかの国では「半国守護」が定着しつつありました。
 この提案には教家・成春派の畠山持国が反対しました。持国はあくまでも成春が加賀全てを統治すべきと考えていたのです。しかし世間で持国批判が沸き起こると、持国も教家・成春もやむなく提案を受け入れました。
 5月17日、富樫成春・泰高はそれぞれ加賀半国守護に補任され、どうにか加賀騒動は落ち着きました。結局、領国を仲良く半分に分けることになったのです。

一旦収まりましたが、またしばらくすると揉め始めます。


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