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日本人の物語00881【建武期】叡山合戦 高師久斬首

 太平記はここで、不思議な神託について記しています。
 延元元/建武3(1336)年6月21日、比叡山にいた童が突然
「明日の正午、日吉山王権現(ひえさんのうごんげん)が逆徒を見事に退けるであろう」
などと喋り出しました。日吉山王権現という神が童に取り憑いて予言をしたというわけです。
 日吉山王権現とは、比叡山の山岳信仰と天台宗が融合した神仏習合の神です。
 元々、坂本には日吉大社(ひえたいしゃ)という神社が建てられており、信仰を集めていました。その頃には比叡山は「日枝山(ひえやま)」と呼ばれており、そのあたり一帯を「日吉」と書いて「ひえ」と呼んでいたのです。日吉大社は日枝山を神として崇める信仰から生まれた神社だったと考えられます。
 やがて、その坂本から目と鼻の先にある比叡山に天台宗の延暦寺が建てられました。日吉信仰と天台宗とがいつの間にか習合して「日吉山王権現」という神ができ、延暦寺の僧たちはこの神を信仰するようになったわけです。
 ちなみに日吉大社は明治以降、より読みやすい形に改められ「ひよしたいしゃ」と読まれるようになりました。
 翌6月22日早朝、比叡山の面々はひどく驚きました。比叡山に住む猿たちが集まって来て、鐘を何度も撞いたのです。日吉信仰では猿は神の使いとされています。まるで神が僧兵らを応援してくれているかのようです。
 後醍醐天皇方は勢いに乗って、20万騎で討って出ました。足利方180万騎(太平記の誇張が過ぎます!)はしばらくは互角に戦っていましたが、後醍醐方のあまりの勢いに圧倒され、次々に逃げていきます。逃げる途中で谷や行き止まりの場所に次々と落ち、大量の死傷者を出してしまいました。その数たるや、「倶利伽羅峠の戦い(00477回参照)の比ではなかった」と『太平記』は記しています。
 高師久は退却せず戦っていたところを生け捕られ、新田義貞の前に引きずり出され、東坂本を引き回しの上、唐崎浜でさらし首となりました。「市中引き回し」というのはよく聞きますが、「東坂本を引き回し」とは珍しいですね。
 師久は足利家執事・高師直の従兄弟に当たる大物で、この大将格の敵将を処刑できたことは後醍醐方を大いに勇気付けたことでしょう。
 ちなみに、この叡山合戦の西坂本の大将で斬首となった人物について、『太平記』は「高豊前守(こうのぶぜんのかみ)」と表記しています。高豊前守とは高師重(こうのもろしげ:?~1343)のことで、師直の父に当たる人物です。この叡山合戦で死んではいませんから、『太平記』の人物名表記が誤っているのでしょう。実際に叡山合戦で死んだのは高師久ですから、本稿では初めからそのように表記することとしました。

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