日本人の物語00593【鎌倉前期】比企能員の変 頼家の最期
建仁3(1203)年11月6日。修禅寺に幽閉中の頼家から鎌倉に
「退屈で耐えられないので、側近の下向を許してほしい」
との書状が届きました。幕府の(おそらく時政の)決定は
「それは許されない。あわせて、今後は書状を鎌倉に送りつけることを禁ずる」
という厳しいものでした。
この返事を頼家に伝えるのと、あわせて頼家の様子を監視する目的を兼ねて、三浦義村が修禅寺に使わされました。11月10日に修禅寺から鎌倉に戻ってきた義村が、頼家の様子を詳しく話すと、政子は大層悲しんだと記録されています。
その後、元久元(1204)年7月18日に頼家は殺害されました。『吾妻鏡』には、単に「頼家の死の知らせが届いた」とそっけなく書かれているだけですが、『愚管抄』には、
「元久元年7月18日に、修禅寺で頼家入道は刺し殺された。頼家の抵抗が激しかったので、首に紐を巻き付け、陰嚢を押さえるなどして殺したと聞いた」
とその様子が記録されています。
吾妻鏡の7月24日の条には、「頼家の旧臣たちが謀反を企てたので、幕府が追討軍を送り込みこれを誅殺した」とあります。頼家に忠誠を誓った側近たちは、頼家暗殺を知って憤り、決起を思い立ったのでしょう。
現在、修禅寺近傍の温泉街は(漢字表記が異なりますが)「修善寺温泉」となり、頼家の墓や決起した旧臣たちの墓、さらに政子が頼家の死を悼んで建立した経堂「指月殿(しげつでん)」があります。また、修禅寺の宝物殿には、政子が指月殿に納めた『宋版放光般若波羅蜜経』があり、巻末に政子直筆の署名が残されています。
果たして政子は頼家謀殺に加担していたのかどうか気になるところですね。政子は北条一族の安泰のために比企一族を葬る計画に参画していましたが、我が子を殺すことにも同意していたのでしょうか。三浦義村から頼家の近況を聞いて悲しんだり、頼家の供養のために経堂を建てて経典を納めたり、そこには母らしい愛情も感じられます。政子にとって、頼家は確かに親の指示に従わない困った放蕩息子でしたが、かといって幽閉したり殺害したりといったことまでは考えていなかったのかもしれません。
明治期になって、戯曲家の岡本綺堂(おかもときどう:1872~1939)は新歌舞伎『修禅寺物語』を著し、母への愛憎を絶叫しながら殺されていく頼家の壮絶な最期を描き、これが上演されるや大いに好評を博しました。
頼家の死は幕府に暗い影を落としたと考えられますが、3代将軍となった弟の千幡もまた、似たような運命をたどることとなります。
