日本人の物語01274【室町/義満期】長倉の乱
「人名索引」を鋭意作成中で、近日中に公開できそうです。Wikipediaに項目がない人も結構いっぱいいるので、そこそこ有意義なものかなと思っております。
上杉家からの義人を婿入りさせて佐竹宗家を継がせるか、はたまた庶流の山入与義が継ぐべきか。佐竹氏を支える常陸守護代・小野崎通綱(おのざきみちつな)と江戸通景(えどみちかげ:?~1455)は義人の婿入りに賛成しましたが、一方で前当主・義盛の弟である義有(よしあり)は山入与義を支持しました。
しかし他ならぬ鎌倉公方満兼が義人の相続を命じているわけですから、義人は常陸に下向してきます。応永14(1407)年10月、異説ではその翌年の8月とも言われていますが、山入与義は長倉義景(ながくらよしかげ)を誘って、長倉城(茨城県常陸大宮市)に立て籠もって義人の下向を阻止しようとします。
この鎮圧を命じられたのが新田氏の庶流に当たる岩松満純(いわまつみつずみ:?~1417)でした。岩松の大軍に城を包囲された長倉義景は、勝ち目がないと悟って山入与義を説得し、翌応永15(1408)年4月10日に降伏しました。
6月20日。上杉改め佐竹義人が、岩松満純の子・持国(もちくに:?~1461)や小田野自義(おだのこれよし:?~1421)に護衛されながら鎌倉から下向し、太田城に入りました。このとき、反対派の額田左京大夫(ぬかたさきょうだいぶ)という人物が義人の行列を襲撃すべく待ち構えていたものの、小田野自義が経路を変更したため難を逃れたとの話が伝わっています。
こうして佐竹家の血筋は上杉家に塗り替えられました。新たな当主・義人はまだ9歳で、その妻に内定している源姫は4歳に過ぎず、まだ自主的に政務を執れるわけがありません。当然に上杉家の意向に沿って政務を進めることになります。
当時、太田城下では不満分子らによるこんな歌が流行しました。
「梅に桃 柳に桜 接ぐと聞く 竹に木を接ぐ 世の不思議さよ」
つまり接ぎ木(つぎき)をするに当たって、「梅に桃」とか「柳に桜」というのはよくあるけれども、竹(佐竹家)に木(上杉)を接ぐのはおかしいぞというわけです。
この噂を聞いた関東管領・上杉憲定はひどく不機嫌になりました。たまたま佐竹家から小野崎与三郎(おのざきよさぶろう)という使者が来訪したため、憲定は小野崎に
「けしからぬ風聞が人々の口に起こっているそうだな」
と詰問しました。すると小野崎は
「気になさるほどのことではありません。実は他に『梓弓 真弓破魔弓 昔より 竹に木を接ぎ 世をぞ治むる』という歌も流行っております」
と別の歌を披露しました。竹に木を接ぐことで作られる梓弓は非常に縁起が良いというわけで、これには憲定も機嫌を直したというのです。上手い返しがあったものです。
