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日本人の物語00254【平安前期】最澄と空海 理趣釈経借用問題

 その後、最澄はたびたび空海から経典を借りていたのですが、弘仁4(813)年11月23日、
「理趣釈経(りしゅしゃくきょう:理趣経という経典の解釈書)を借りたい」
との手紙を出しました。これに対し空海は、密教を書籍だけで学ぼうとする最澄の態度を厳しく批判し、
「理趣経については、経典やその解釈書を読むだけでは誤解して学んでしまうおそれがある。あわせて面授(対面での指導)も必要であるから貸し出すことはできない」
と断りの手紙を返しました。
 空海からの拒絶の手紙を読んだ最澄は、11月25日に泰範へ宛てて手紙を書きました。内容は、「文殊讃法身礼・方円図・注義」の意味を教えてほしいというものでした。
 というのも、最澄はこれ以前に空海から詩を贈られており、最澄は返詩を作ろうとしたのですが、詩の序文に内容のわからない書物の名がありました。それが「文殊讃法身礼・方円図・注義」でした。理趣釈経の借用はあきらめるにしても、不明な本の内容だけでも泰範に聞いておこうと思ったわけです。
 この手紙は最澄の自筆の手紙としては現存する唯一のものです。書き出しが
「久隔清音」(久しく便りがないので)
となっているため、『久隔帖(きゅうかくじょう)』と呼ばれ、国宝に指定されており、奈良国立博物館で現物を見ることができます。
 文中、空海を指す「大阿闍梨(だいあじゃり)」の箇所で行を改めている点に注目です。「ある人物の尊称の上に文字を書かないよう、尊称の箇所で改行する」という文化は、その人物に敬意を表するためのものです。最澄は、空海本人に宛てた手紙ではないにもかかわらず、空海への礼を欠かさずに手紙を書いたのです。最澄の人柄が滲み出ていると思います。
 さて、この最澄の手紙に対して泰範がどのような返事を出したのかは、記録がなく、明らかではありません。しかし泰範はこのとき既に空海に深く帰依しており、最澄からの手紙に返信を滞らせるようになっていたと考えられます。
 弘仁7(816)年。最澄は泰範に、何度も「比叡山に帰ってきなさい」との手紙を書き送っています。そのうち最後の手紙の中に、
「法華一乗と真言一乗と何ぞ優劣有らむ」
(私の天台宗と空海の真言宗を比べたときに、何ら優劣はないぞ)
という文言がありました。これは無視できないと思った泰範は、遂に返信をしたためようと決意します。

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