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日本人の物語00389【平安後期】待賢門院璋子の生理周期*

 待賢門院璋子をめぐる最大の謎は、前述のとおり「崇徳天皇の父親は誰か」という点です。もはやその真実を知る方法はありませんが、宮内庁公式の天皇系図においては、顕仁親王はあくまで鳥羽天皇と璋子の子として記録されています。
 この謎に奇妙な方法で迫った歴史学者がいます。平安時代研究の第一人者として長年学界を牽引して来た角田文衛(つのだぶんえい:1913~2008)氏です。
 角田氏は、昭和49(1974)年に発表した『椒庭秘抄 待賢門院璋子の生涯』という著作の中で、なんと璋子の生理周期を特定した上で父親がどちらかを調べようと試みました。
 その研究の道筋を辿ってみましょう。
 まず、崇徳天皇が産まれたのは元永2(1119)年5月28日ですから、受胎の時期を元永元(1118)年9月23日から30日までの間と特定します。この時点で既に誤差が大きい気がしますが……。
 さらに、璋子の生理周期を特定するための前提は次のとおりです。
・生理中は穢れを嫌う宮廷儀式への出席を避けるであろうことから、入内の日に当たる永久5(1117)年12月13日は生理中でないこと
・同じ理由で立后の日に当たる元永元(1118)年1月26日も生理中でないこと
・璋子が白河法皇の在所である正親町第に行啓した元永元(1118)年6月22日は、白河法皇との情事が目的であろうことから生理中でないこと
・藤原宗忠の日記『中右記』に「璋子が邪気に悩んだ」との記載がある元永元(1118)年6月12日は、生理前又は生理初期であること
 これらのことから角田氏は生理周期を完全に特定し、
「受胎の契機となった情事は、元永元(1118)年9月20日~24日のうちに行われた」
と特定します。
 『中右記』には、まさにこれと重複する期間である元永元(1118)年9月20日~25日に璋子が白河法皇のいる正親町第に滞在していたことが記載されていることから、角田氏は「崇徳天皇の父は鳥羽ではなく白河である」との結論を弾き出しました。
 一読してお分かりのとおり、角田氏の研究は、
「永久5(1117)年12月から元永元(1118)年9月まで生理周期がぴったり28日である」
という前提で成り立っています。その根拠は
「(璋子は)六人の皇子女を産んだことからも察しられる通り、健康な婦人であった」
の一言であり、ずっこけてしまいます。この点、ある国文学の女性教授は「私も健康な婦人ですが、生理周期は31日です」と反論しておられます。
 一人でも女性に事前相談しておけば、このような研究成果が発表されることはなかったでしょう。

角田文衛教授が待賢門院璋子の生理周期を特定した研究書『待賢門院璋子の生涯』。

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