日本人の物語01133【南北朝後期】第七次京都合戦 春王の豪胆
本日やっと京都合戦を全て(第一次~第七次)書き終えました。Wikipediaにも詳細は載っていないので、もしかすると私のこの連載がネット上で最も詳しい解説かもしれません。
この第七次京都合戦においては、義詮の嫡男でまだ満3歳の春王(はるおう:後の足利義満:1358~1408)もまた、敵の手から逃れるためあちこちを転々としました。
南朝方が京を占領している間、春王は乳母とともに将軍御所から逃亡し、建仁寺の大竜庵に身を潜めていました。大竜庵とは赤松円心の墓もある赤松家ゆかりの庵です。
住職の蘭洲良芳(らんしゅうりょうほう)は赤松家と昵懇で、
「早く播磨の則祐殿のところに逃げてください」
と強く薦めていましたが、そこに細川清氏方の兵たちが検分にやってきました。蘭洲良芳は急いで春王を法衣の中に隠れさせ、上手くやり過ごすことができました。
蘭洲良芳は、檀家の一人である北野行綱(きたのゆきつな)という武士に春王を託しました。北野行綱は旅の商人に扮装して春王を連れ、播磨へと脱出します。
正平16/康安元(1361)年12月15日。北野行綱と春王は無事に則祐の居城・白旗城(兵庫県上郡町)に到着しました。行綱はこの功績を称えられ、後に将軍となった春王(義満)から「義」の一字を与えられて「北野義綱」と名乗るようになります。
赤松則祐といえば護良親王の十津川での逃避行を支えた一人でしたが、ここで春王の逃亡を支えたことが縁で、後に将軍義満と極めて密な関係を築くこととなります。例えば赤松家臣による「赤松囃子(あかまつばやし)」と呼ばれる踊りがありますが、この踊りは義満に愛され、やがては毎年将軍義満を屋敷に招いて行われる行事となりました。
白旗城に伝わる伝説によると、この滞在中に春王は壁にかかった地蔵尊の絵に強く反応を示し、
「夢の中にこのお方が立った」
と言い出しました。これを聞いた赤松則祐は驚き、
「この絵は先の将軍尊氏様がお描きになったものです。この地蔵尊と出会った者は国王になる、と言われております」
と言います。後に義満が明から「日本国王」と称されることを踏まえた創作でしょう。
そのうち、幕府によって京が奪回されたとの情報が届き、春王は都に戻ることとなりました。途中、摂津の琵琶塚(神戸市兵庫区)を通ったとき、春王は周辺の景色を眺めて、
「この景色が気に入った。この景色を都まで運べ」
と命令しました。一同は春王の帝王としての素質に深く感じ入って感嘆したと言われていますが、小林一茶に「名月をとってくれろと泣く子かな」という句があるように、3歳くらいの子供がよく言う戯言ではないかと思います。
