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日本人の物語01137【南北朝後期】畠山討伐 国清横死

高師夏・師秋・師冬の3人を登場させたので、残る師春も登場させたかったのですが、何をした人かが全く分からず、どうしても登場させられませんでした。

 基氏は畠山国清たちに追っ手を差し向けました。
 国清は京に到着して、すぐに南朝方の楠木正儀に使者を送ります。降伏するので南朝方の武将として加えてほしいというのです。正儀はこれを後村上天皇に報告したのかどうか分かりませんが、返事はありません。
 そもそも仁木義長が幕府内で失脚して南朝方に降ったのは、国清が仁木討伐を主張し始めたためでした。今ここで仁木に続いて畠山国清をも南朝方として取り込むのは、難しい判断だったでしょう。
 京に潜伏するのも危うくなったので、国清は奈良や山城国の近辺で禅寺や律宗の寺を転々としながら暮らします。あるときは山に住む人のあばら屋で旅寝をしつつ、長居できる宿もなく、遂に道ばたで物乞いをするしかなくなり、目も当てられない生活となりました。国清はそれほど経たないうちに野垂れ死んだと太平記は伝えています。
 実際には国清の死は史料としては確認できていません。太平記は正平17/康安2(1362)年中に死んだと伝えているものの、実際の没年や死んだ場所は明らかではありません。
 なお、弟の義深については結局許され、その後なんと越前守護に任ぜられることとなります。越前国での執政は円満で住民にも評判がよく、畠山家は幕府からも評価され、義深の子孫は斯波・細川と並んで三管領の家柄となるのです。
 このことから考えても、基氏が国清を騙し討ちしようとしたとは考えられません。国清はあらぬ憶測で人を疑い、そのために身を滅ぼしてしまったのでしょう。
 さて、国清の反逆によって関東執事が空席となったわけですが、基氏はそこに高師有(こうのもろあり:?~1364)を当てました。観応の擾乱において一貫して直義党を支持し、個人的にも直義に私淑していた基氏が高一族を重用するとは意外に見えますが、実は高師有は高一族の中でも特殊な位置付けなのです。
 高師直からみて従兄弟に当たる師秋・師冬という兄弟をご記憶でしょうか。師秋は飽浦信胤が南朝方に寝返る原因を作った人物で(00962回参照)、師冬は東国で北畠親房らと戦い続けた人物ですね。そのうち師冬は師直の養子となった縁から、観応の擾乱において尊氏党として行動しましたが、師秋は直義党として他の高一族とは一線を画しました。
 師有はその師秋の息子であることから、基氏の信頼を受けていたのです。
 しかしその高師有は、病のため1年程度で関東執事を辞任することとなります。この関東執事の後任をめぐって再び東国は内紛を起こすのですが、その話はまた後で取り上げることとしましょう。

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