日本人の物語00223【奈良】鑑真来日 渡日決意
天平勝宝4(752)年。久しぶりに遣唐使が派遣されました。
大使には藤原清河(ふじわらのきよかわ:?~779)が選ばれました。房前の四男です。
副使には吉備真備と大伴古麻呂(おおとものこまろ:?~757)の2名が選ばれました。
当時、唐への渡海は命の保障のない長旅でした。吉備真備が57歳で遣唐副使に命じられたことは、異例中の異例でした。藤原仲麻呂が真備を冷遇しようとしたものと考えられます。死ねばいいと思っていたのかもしれません。
清河らは無事に唐に行き着くことができ、翌天平勝宝5(753)年、帰国の途につこうとしたところ、唐の高僧・鑑真(がんじん:688~763)が乗船を希望してきました。
さて、鑑真がなぜ日本に渡ろうとしたかを説明するには、天平5(733)年にさかのぼらなければなりません。
日本では自ら出家を宣言する僧が多かったのですが、唐では出家には伝戒師による授戒が必要でした。日本が高度な文明国として認められるためには、僧の出家制度についても唐と同様のシステムを整えておく必要がありました。
そこで天平5(733)年に、栄叡(ようえい:?~749)と普照(ふしょう)の2名が、伝戒師を招請するために日本から唐に渡ったのです。栄叡と普照は、伝戒師の役割を果たしてくれそうな僧を探しては、交渉しました。しかし、命を懸けてまで、わざわざ小さい島国である日本にまでやって来てくれるという奇特な高僧はなかなか現れません。無理からぬことと思います。
唐に渡って9年が経過した天平14(742)年、栄叡と普照は運命の出会いを果たします。二人が訪れたのは、揚州の大明寺の住職であった鑑真でした。
栄叡と普照が、
「日本に伝戒師を派遣してほしい」
と懇請したところ、鑑真は弟子たちに
「日本へ行きたい者はおらぬか」
と希望者を募りますが、誰も手をあげようとしません。これを見た鑑真は
「何と情けないことだ。それならば私が行こう」
と、自ら渡日すると言い出します。すると、「私も」「私も」と次々に弟子たちが名乗り出て、21人の弟子が随行することになりました。まるでダチョウ倶楽部です。
鑑真のような高僧が、正式に渡航願いを出したとして、唐の政府に認めてもらえるわけがありません。鑑真は密航を決意し、政府に無断で日本を目指すこととなります。
