見出し画像

日本人の物語01617【室町/東国/長尾景春の乱】成氏の尻尾切り

足利成氏の神経を疑うような話です。

 小机城を落とした道灌は、文明10(1478)年4~6月にかけて大活躍を見せます。個別の戦闘の詳細が分かっていないので、箇条書きで記しておきます。
・葛西城(東京都葛飾区)を陥落させた。
・大石憲仲(おおいしのりなか)の二宮城(東京都あきる野市)を戦わずして降伏させた。
・磯部城(神奈川県相模原市)を陥落させた。
・小沢城(神奈川県愛川町)を陥落させた。敵は奥三保(神奈川県相模原市)に逃亡。
・本間氏・海老名氏・加藤氏らの籠もる奥三保を制圧した。
・大森成頼(おおもりしげより)の守る平塚城(神奈川県平塚市)を、分家筋の大森氏頼(うじより:?~1494)・実頼父子を味方につけて攻略した。氏頼・実頼父子はその後小田原城(神奈川県小田原市)を建てて新たな拠点とした。
 いやはや、電光石火の戦いぶりです。しかもこの間の6月25日、道灌は居城である江戸城の鎮守社として、城内に平河天満宮(東京都千代田区)を建立する余裕がありました。
 道灌がかくも強かったのは、当時まだ珍しかった「足軽」と呼ばれる農民出身の兵を用いた奇襲を得意としていたためでした。関東の各武将は手勢が少なかったのに対し、道灌は江戸城で農民に訓練を施し、彼らに草むらに隠れて待機させ、敵将が近づいてきたところで奇襲して討ち取るという作戦を用いていました。『太田道灌状』では道灌が戦闘の際に「馬を返した」との記述が何度も登場しており、これは道灌自身が馬を返して退却しているように見せかけて、深追いしてきた敵将を足軽に討ち取らせる作戦だったと考えられます。
 相模と南武蔵方面を平定した道灌は、続いて成氏のいる成田の陣に近づいていきました。成氏に停戦協定違反の一件を問いただそうとしたと考えられます。
 7月17日。太田道灌が近づいてきたのを知った成氏は、使者・簗田持助を派遣してこんな弁明をしてきました。
「和睦したのに景春が言うことを聞かず困っている。景春を討伐してほしい」
 この取って付けたような弁明は一体何なのでしょうか。
 景春の軍事行動が成氏の指示によるものだったとまでは断定できませんが、成氏が景春を制止するべく努力していたとは信じられません。つまり成氏は和睦したにもかかわらず、景春の戦闘継続を容認していたのでしょう。そして景春らが敗北して都合が悪くなったため、我関せずとの態度を決め込んだのです。言わばトカゲの尻尾切りのような形で景春を切り捨てたわけで、この身勝手な言い訳には道灌も呆れ果てたことでしょう。

太田道灌の戦い方もなかなか卑怯というか創意工夫というか、何ともいえないですね。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集