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日本人の物語01177【南北朝末期】懐良親王と宗良親王の交流

歴代征夷大将軍を全部覚えたつもりの人でも、鎌倉9人・室町15人・江戸15人だけを覚えていて、南朝方の将軍4人(護良・成良・興良・宗良)は覚えていないのではないでしょうか。さらに平安王朝の将軍2人(大伴弟麻呂・坂上田村麻呂)も加え、歴代将軍は全部で45人のようですね。

 話は再び九州情勢に戻ります。前述のとおり、筑後川の戦いと長者原の戦いによって九州は完全に南朝勢力に制圧され、幕府が九州探題に任命した渋川義行は九州に上陸することすら叶わず、更迭されたのでしたね。
 破竹の勢いだった懐良親王ですが、子宝には恵まれなかったらしく(そもそも誰を娶ったのかも不明)、後継者として後村上天皇の六男・良成親王(よしなりしんのう:?~1395)を吉野から派遣してもらっていました。つまり懐良親王からみて甥に当たります。
 懐良親王は九州制圧の次は四国だと考えていたらしく、正平24/応安2(1369)年12月、伊予を治める南朝方の武将・河野通堯のもとに良成親王を派遣しました。良成親王の生年は不明ですが、おそらく10歳そこらであったと考えられます。
 北朝との戦いを有利に進め、明からは日本国王として認められていた懐良親王ですが、勝利に喜んでばかりではなかったようです。というのも、信濃で戦っている兄・宗良親王に対し、建徳2/応安4(1371)年秋の書状で、
「日にそへて のかれんとのみ 思ふ身に いとど憂き世の ことしげきかな」
(日増しに世を遁れようとばかり思っているのに、ますます俗事が押し寄せてくるものだ)
と書き送り、出家したいとの意志を示しているのです。果てなき戦いに嫌気がさしてきたのでしょう。
 これを受け取った宗良親王の方は、長年組んできた新田義興・義宗兄弟を失って悲嘆に暮れていた時期と思われますが、
「とにかくに 道ある君が 御世ならば ことしげくとも 誰かまどはむ」
(我々は道理のある天皇を戴いているのだから、俗事が多くとも惑わされることはない)
との返歌を送り、弟を激励しています。
 さらに同年9月21日には、懐良親王から宗良親王に
「しるやいかに よを秋風の 吹くからに 露もとまらぬ わが心かな」
(ご存じですか。憂き世に秋風が吹くように私の心にも世を厭う気持ちが募り、露が落ちるように現世を離れようとする私の心を)
と、なおも出家を示唆する歌が送られ、宗良親王からは
「草も木も なびくとぞ聞く この頃の 世を秋風と 嘆かざらなむ」
(あなたには草も木も心を寄せて従うのだから、時勢を秋風のように心細いなどと思わないでください)
との返歌がありました。
 これらの歌は宗良親王が残した『李花集』という歌集に収められています。信濃・越後で戦い続けた宗良親王は、歌を詠むことで心を落ち着けていたのでしょう。

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