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日本人の物語00369【平安後期】源隆国の息子たち

 治暦4(1068)年4月19日に即位した後三条天皇は、即位以前から藤原氏と対決する運命にありました。
 後三条天皇は長元7(1034)年生まれで、寛徳2(1045)年に11歳で皇太弟となったのですが、藤原氏を外祖父に持たないため、藤原頼通に疎まれていました。
 皇太弟時代、たまたま東宮(とうぐう:皇太子の住む宮)の近くに盗賊が逃げ込み、検非違使が東宮近くを探し回っていたところ、近臣たちは
「頼通の命を受けた検非違使たちが皇太子を逮捕しに来たのか」
と覚悟を決めた、とのエピソードがあります。それほどまでに、いつ廃太子されるかビクビクしながら生きてきたということでしょう。
 この後三条天皇はなかなか優れた君主だったようで、『古事談』にこんなエピソードがあります。
 後三条天皇は皇太子時代に源隆国(みなもとのたかくに:1004~1077)からひどく冷たくされていたため、「天皇即位後に隆国の息子たちに意趣返しをしてやろう」と思っていました。息子たちというのは、
・源隆俊(みなもとのたかとし:1025~1075)
・源隆綱(みなもとのたかつな:1033~1074)
・源俊明(みなもとのとしあき:1044~1114)
の三人です。
 まず後三条天皇は、源隆俊の仕事ぶりを、小窓からじっと観察しました。すると隆俊は、脇見一つせず仕事に励んでおり、朝廷の仕事を一人で切り盛りしていました。「これを用いなければ朝廷にとって損失だ」と天皇は考え、隆俊を近習に取り立てることにしました。
 次に源隆綱について復讐の機会を窺っていたところ、陣定(じんのさだめ:公卿らの会議)で「狐を射殺した者をどう罰するべきか」が話題になった際、隆綱は中国の古典『礼記』を踏まえた見事な文書で議定結果の報告書を書きました。これに感嘆した天皇は、隆綱を近習に取り立てることとしました。
 最後に源俊明についてです。二条殿が火事になって天皇が避難することになったとき、多くの者が避難場所にひしめき合って天皇が困っていたときに、俊明は周りの者たちを追い払って天皇を助けました。天皇はこれまた感銘を受け、俊明をも近習に取り立てることとしました。
 後三条天皇は、「かつて自分を冷遇した者に復讐をしよう」と考えた点においては器の小ささを感じさせる人物かもしれませんが、人を見る目は確かだったようです。

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