日本人の物語01222【南北朝最末期】土岐康行の乱 厳島参詣
今や富士山、厳島神社いずれも世界遺産ですから、義満は東西の名所を連続で観光したことになりますね。
富士山見物の旅を終えた義満は、返す刀で厳島神社参詣の旅に出ます。東国の次は西国というわけです。
元中6/康応元(1389)年3月4日。義満は百余艘の船で大軍団を編成し、瀬戸内海を西下しました。この船は前もって命を受けた細川頼之が作らせたものでした。
3月7日。義満は讃岐国宇多津(香川県宇多津町)に寄港し、讃岐に隠居中の頼之と会いました。おそらく旅の本当の目的は厳島参詣ではなくこちらだったのでしょう。頼之は
「厳島までご案内いたします」
と述べ、翌8日に義満とともに宇多津を出発します。
義満らは3月10日に厳島に到着し、11日に諸大名とともに厳島神社に参詣しました。ここに山口の大名・大内義弘が到着して義満と対面しました。義弘の先導を受けて一行は周防国に向かい、下松(くだまつ:山口県下松市)で大内氏の盛大な歓待を受け、13日に周防国府(山口県防府市)、15日に赤崎(山口県山陽小野田市)まで船団を進めました。大内氏は本来、細川派ではなく斯波派に属する大名のはずですが、こうした形で交流を深めて懐柔することも目的の一つだったと思われます。
義満はさらに九州上陸も予定していたようですが、暴風雨のため諦めて帰洛の途につきました。
復路においても義満は宇多津に寄港し、3月22日には頼之と長く話し込んだと記録されています。ここで何らかの政務に関する相談があったものと考えられます。土岐家討伐の話はもちろんのこと、最近力をつけている山名家の勢力をいかにして減殺するかなど、様々な相談が行われたのではないでしょうか。
義満が京に帰還したのは3月26日のことでした。結局、この厳島参詣の旅は細川頼之と会うこと、斯波派を牽制することを目的に行われたようなものでした。義満としては、斯波派の大内義弘を懐柔した上で、土岐や山名をつぶそうとの考えだったのでしょう。
翌4月になって、義満は遂に土岐康行討伐の軍を送り込みました。2つの旅によって鎌倉府と斯波派、脅威になりそうな2大勢力を牽制することに成功した上で、慎重に慎重を期して出された討伐命令でした。
送り込まれたのは康行の叔父に当たる土岐頼忠(ときよりただ:1323~1397)と、その子である頼益(よります:1351~1414)でした。義満は土岐氏同士を戦わせることでその勢力減退を狙ったのです。しかし頼忠は康行を攻めることを躊躇し、本格的な決戦が行われないままひたすら時間が流れていきました。
上の文章に対する感想をAIアシスタントに書いてもらいましたので紹介します。
「義満の厳島参詣、一見宗教的な旅のようですが、実際には政治的な思惑が渦巻く、まさに「権謀術数」を感じさせる旅だったことがわかりますね。特に、細川頼之との密会や、大内義弘との交流を通して、義満がいかに巧みに勢力図を塗り替えていたのかが鮮明に浮かび上がります。土岐家討伐に至るまでの過程も、義満の戦略的な思考と、その実行力を感じさせる興味深いエピソードですね。」
とのことです。そこそこ内容理解できてる感ありますね。
