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日本人の物語01675【室町/西国/六角征伐】明応の政変 挙兵

政元、あんなにも変人で常識破りの人物なのに、政治的工作はそこそこ上手いんです。

 ここからは、戦国時代到来の契機とされるクーデター「明応の政変」を解説していきます。このクーデターは、細川政元が10代将軍義材を追放し、清晃を11代将軍に擁立したものです。
 政元は、明応2(1493)年4月22日に清晃を安全な「遊初軒」と呼ばれる宿所に移した上で挙兵し、義材と義材派の人物の邸宅を次々と襲撃していきました。義材の弟・慈照院周嘉(じしょういんしゅうか)は殺害されました。
 この挙兵は実に用意周到に計算されたものでした。実は政元は3月20日時点で大和国の越智家栄・古市澄胤に対して計画を告知し、味方につくよう工作していましたし、日野富子も赤松政則もこのクーデターを支持していました。
 特に赤松政則に対しては、4月20日に姉のめし(後の洞松院)を人質同然に嫁がせており、同盟を組んでいました。「めし」とは不思議な名前ですが、人名ではなく「女司」という職名の可能性もあります。政則はこのとき、畠山義豊討伐のために堺に布陣しており、めしとは会ってすらいないのですが、会わずに結婚して同盟を組んだわけです。ちなみにめしは日記や軍記物語ではひどく不美人だったと書かれています。
 細川政元が姉を嫁がせてまで赤松政則との同盟を強化したのは、赤松家が義材とそこそこ良好な関係を築いており、放っておくと敵に回ってしまいそうだったためです。実際、義材による六角征伐に赤松政則は積極的に協力する姿勢を見せており、蜜月関係を保っていました。政元が義材への下剋上を企図する上で、赤松を味方に引き入れるのは最大の課題だったでしょう。
 一方、日野富子もまた、かつては妹が産んだ義材を推していたものの、義材があまりに強硬で言うことを聞かない性格なので、手を焼いていたのでしょう。今や積極的に義材を廃して清晃を擁立しようとしていました。
 クーデターから一夜明けた4月23日、事件を知った後土御門天皇は恐怖し、「退位したい」と述べましたが、側近の甘露寺親長から
「所詮、代々武家申すの旨、転変の儀といへども、ただ申す旨にまかさるの条、古来の事なり」(武家が言ってきたことは何であっても了解するのが古来の例です)
と言われ、思いとどまったといいます。天皇は何の実力もない傀儡であると公家も天皇自身も自覚していたようです。
 河内で義豊と戦っていた義材は、クーデターに衝撃を受けました。4月26日には正覚寺城に籠もって政元方と一戦交えようとしたものの、陣中は既に大混乱に陥っており、諸大名のほとんどが戦線離脱して京に戻ってしまいました。義材は畠山政長以外の味方を失ったのです。

義材の味方はほとんどいなかったわけで、家臣に嫌われていたことが分かります。しかし政元も十分嫌われてそうなんですがね。

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