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日本人の物語01044【南北朝中期】武蔵野合戦 卑怯な計略

最近、南北朝時代の出来事について調べようと検索すると、私の「30年日本史」がトップに出てくることが増えてきました。もしかすると南北朝時代に関するネット情報としては私のブログが最も詳しいものになるかもしれません。

 南朝方が企てていたのは、恐るべき東西同時の攻略作戦でした。正平7(1352)年閏2月下旬に、南朝軍は示し合わせたように京と鎌倉に同時に侵攻するのです。具体的には「武蔵野合戦」と「第四次京都合戦」が同時に行われるのですが、本稿では武蔵野合戦から見ていきましょう。
 まず閏2月15日、新田義興・義宗兄弟とその従兄の脇屋義治とが上野国(群馬県)で挙兵しました。
 この挙兵にはある逸話があります。前年の冬、新田義興・脇屋義治が義宗を訪れ、尊氏を討とうと誘ったのですが、義宗は
「父の死の際、尊氏は書状をもって懇ろに弔ってくれた。とても討てない」
と答えたといいます。そこを義興・義治が必死に説得することでようやく義宗は立ち上がったというのです。どうやら義宗だけは幕府に向き合うスタンスが異なるようですね。
 挙兵した新田軍は20万騎に迫る勢いだったのに対し、鎌倉にいる尊氏軍は千騎に満たないものでした。それを知った側近たちは尊氏に
「安房に流れて再起を図るべきです」
と薦めました。そういえば源頼朝も石橋山の戦いに敗れて一旦は海路で安房に逃れたのでしたね。そうした故事にあやかろうというわけでしょう。しかし尊氏は
「鎌倉が陥落すると士気が下がる。たとえ小勢でも戦うべきである」
と主張し、閏2月16日早朝、僅か500騎で鎌倉を発ちました。圧倒的に不利な戦いの中、逃げもせず、籠城でもなく、討って出ようというのです。いつものように死を覚悟してのやけくそかもしれません。
 ところが、ここで尊氏に天の助けがありました。
 この話を説明するには、まずは三浦高通(みうらたかみち)という東国武士を紹介しなければなりません。彼は鎌倉幕府の権力者であった三浦一族の出身で直義党に属しており、薩埵山の戦いで尊氏党に降伏し、所領を大幅に減らされた身でした。
 三浦高通は同じ境遇の石塔義房と相談し、
「新田殿と足利殿の戦いになったら、寝返って新田殿にお味方しよう」
などと話し合っていました。一発逆転するには尊氏政権を倒すしかないというのです。
 それにしても三浦・石塔の作戦は卑怯です。当初は足利方の味方のふりをして足利軍の中に紛れ込み、戦の混乱に乗じて尊氏を後ろから攻撃しようというわけですから、武士の道に反する行いです。
 ところが、この作戦は実行に移る前に失敗することとなります。

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