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日本人の物語00689【鎌倉中期】文永の役 謎の撤退

 『八幡愚童訓』が事実以上に鎌倉武士たちの苦戦を誇張して描いているとしたら、それはなぜなのか。それは「八幡神」の活躍を描くためなのです。
 というのも、この『八幡愚童訓』はこの後、
「筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう:福岡市東区)の八幡神が、宮を焼かれたことに怒って元軍に矢を射かけ、それに驚いた元軍は一夜で退却した」
との荒唐無稽なエピソードを記載しているのです。元軍を退却に追い込んだのは、鎌倉武士ではなく神様だったというのです。
 このように「神を活躍させて、御家人を活躍させない」との編集方針でストーリーを作っているわけですから、前回紹介したエピソードは信用できるものとはいえません。多少の事実を含んでいる可能性はあるとしても、大幅な誇張が含まれていることでしょう。そして、例の戦闘文化の違いによる御家人の苦戦エピソードを描いているのは、この荒唐無稽な文献『八幡愚童訓』だけなのです。
 しかしながら、元軍が九州本土上陸戦をたった1日で終了させて突然撤退したこと自体は、元軍側の史料からも事実であることが分かっています。戦闘から一夜明けた文永11(1274)年10月21日、昨日まで海を埋め尽くしていた元の船団が姿を消し、御家人たちは驚いたことでしょう。
 元軍の撤退の理由は不明ですが、思った以上に上陸戦で被害を出してしまったためでしょう。対馬や壱岐では民家を襲撃して食糧を奪うことができたものの、九州本土ではそれもままならず、食糧補給ができなくなったことが原因かもしれません。
 高麗史によると、
「撤退途中の元軍を暴風雨が襲った」
との記述があります。といっても、10月の出来事ですから大型の台風などではなかったと考えられます。
 つまり、「八幡神が怒って元軍を一夜で退却させた」という八幡愚童訓の記述と、暴風雨に関する高麗史の記述とがあいまって、後世に
「文永の役では暴風雨のため元軍が一夜で退却した」
という誤った観念が出来上がってしまったようです。実際には、文永の役では暴風雨は戦況に何らの影響ももたらしてはいないというのが現在の定説です。
 こうして、日本史上最大の危機といってもよい文永の役は終了しました。
「圧倒的に有利に戦いを進めていたはずの元軍が、なぜか一夜明けると撤退していた」
と説明されることが多い戦いですが、実際には、元軍も十分に苦戦を強いられていたものと考えられます。

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