日本人の物語01135【南北朝後期】畠山討伐 二城陥落
基氏が派遣した平一揆の者たちと、伊豆の荘園管理人である葛山備中守が揉めていると聞いて、畠山国清の家臣たちはこれを好機と思って葛山備中守の味方になって平一揆と戦おうとしたのですが、どうもおかしなことになります。
平一揆の者たちは畠山軍の接近を知り、
「しまった。葛山は畠山軍と密かに連携していたのか。これでは勝ち目はないぞ」
と思い、慌てて鎌倉に引き返し始めました。ところが葛山備中守は、
「さては平一揆の者たちは、畠山と協力して荘園を強奪しに来たのだな」
と勘違いして、畠山軍をも近づけさせまいと必死に矢を準備して武装し始めました。
結局、畠山軍は葛山備中守に敵と扱われてしまったため、平一揆を討つことができなかったのです。
派遣した平一揆が戦わずに帰ってきたので、基氏は新たに体制を組んで20万騎の軍勢を三津城に派遣しました。この大軍勢にはさすがに敵うはずもなく、正平17/康安2(1362)年4月14日、三津城は陥落し、国清は金山城(静岡県伊豆の国市)に逃亡しました。
20万騎の大軍勢は、すぐさま金山城攻めに移ります。この金山城も6月20日に陥落し、国清は修善寺城(静岡県伊豆市)に移ることとなりました。
太平記はここで、畠山国清という人物の傲慢さについて紙面を割いて書き記しています。
いわく、国清はこれまで関東執事として関東8ヶ国に号令を出す立場でしたが、自分の号令に皆が従うのは自分の仁徳によるものだと勘違いしていました。今回も、自分が呼びかければ兵はいくらでも集まるだろうと思っていたものの、いざ反逆者の立場になるとほとんど兵は集まりません。
修善寺城に籠もった国清は、
「ああ、夢のようだ。昨日は海のように大きな鳥が羽ばたくようだったのに、今日は轍に臥せる干からびた魚が僅かな水を求めているかのようだ。我が身がこうなると分かっていたならば、新田義興を討たずに生かしておいたのに」
と呟きました。どうやら太平記は、国清が義興を騙し討ちにした報いを受けていると言いたいようです。
8月16日。国清討伐のため、入間川を拠点としていた基氏も遂に自ら出陣し、箱根まで進軍して来ました。これまで入間川からほとんど出ることのなかった基氏でしたが、仕上げの総攻撃は自ら指揮したいのでしょう。いよいよ東国の梟雄・畠山国清の最期が近づいています。
