日本人の物語00397【平安後期】76代近衛天皇
保延6(1140)年9月2日。宮中で孤立していた崇徳天皇に明るいニュースがありました。初めての子・重仁親王(しげひとしんのう:1140~1162)が誕生したのです。
崇徳天皇はさっそく、「重仁を帝位に就けたい」と考え始めます。
このとき、崇徳天皇にすり寄り、甘い言葉を囁いた者がいました。美福門院得子です。得子は、
「それならば、すぐに躰仁に譲位され、治天の君になられてはいかがでしょう。そこで重仁を皇太子に立てればよいのです。私が重仁の後見を務めます」
と述べたのです。
上皇となって院政を開始するためには、自らの子に譲位しなければならない……というのが慣例です。躰仁は崇徳にとって弟ですから、いまいち慣例に反するようにも思えます。しかし、躰仁は生後1ヶ月の時点で崇徳の養子になっていますから、一応は崇徳の子といえます。崇徳が
「躰仁に譲位すれば、鳥羽法皇に代わって天皇の養父たる自分が治天の君になれる」
と考えたのも無理はありません。
こうして崇徳は、得子の提案に従い、重仁親王を得子の養子として出すこととしました。得子の後見の下で、天皇に即位するための準備をするためです。
さて、永治元(1141)年12月7日、崇徳天皇は譲位し、2歳6ヶ月の躰仁親王が即位しました。近衛天皇です。美徳門院得子は国母として皇后位に就くこととなりました。
しかし、崇徳天皇は出来上がった譲位の詔を見て愕然とします。「皇太子躰仁に譲位す」と書かれているはずのところが、「皇太弟躰仁に譲位す」と書かれていたのです。
院政を開始する根拠は「天皇の父又は祖父であること」にありますから、公式の詔に「皇太弟に譲位した」と書かれた崇徳上皇には「治天の君」となる資格がないこととなり、院政を行うことはできません。恐らく、鳥羽上皇と得子とが共謀の上で、崇徳上皇を罠にはめたのでしょう。崇徳上皇は騙されたと知り悔しがりますが、後の祭りです。
さらに、崇徳上皇が最も強く望んでいたのは、我が子の重仁親王を皇太子とすることでした。そうした人事についても「治天の君」たる自分が決定権を持てるはずでした。ところが、鳥羽上皇は近衛天皇が幼児であることもあり、「当面皇太子を置かない」と決したのです。
鳥羽上皇は未だに「叔父子」たる崇徳上皇を嫌い、徹底的に干したのです。崇徳上皇は父への恨みを募らせ、その怨念が大きな戦乱を招くこととなります。
