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日本人の物語01254【室町/義満期】応永の乱 堺への籠城

大内家の家臣で「杉」という苗字の人が登場するんですが、これって幕末に吉田松陰を生み出す杉家ですよね。実際に系図がつながっているのか、はたまた「杉」という家が多いだけで血縁はないのか、よく分かりませんでした。

 いよいよ、大内義弘の反乱「応永の乱」について語るときが来ました。
 明徳の乱のときは義満がさんざんに山名家を翻弄し、挑発してきたわけですが、応永の乱については義弘が先に反逆を開始したわけで、その原因がいまいち分かっていません。原因は後で考察することとして、とりあえず『応永記』の記事によって話を進めていきましょう。登場人物のセリフや心情描写については信頼できませんが、日付と出来事は概ね史実通りとみられます。
 応永の乱は応永6(1399)年10月13日、大内義弘が数千騎を率いて山口から堺へとやって来たところから始まります。そして堺で上陸後、義弘は入洛しようとせずそのまま堺に要塞を築き始めたのです。世間では
「義弘は鎌倉公方と共謀して反乱を起こそうとしているのでは」
との噂が流れ始め、義満は義弘の意図を確認するべく、相国寺の絶海中津を派遣することを決めました。
 絶海中津がやって来ると知った義弘は、家臣2人と今後の方針を相談しました。義弘の弟・弘茂(ひろしげ:?~1401)と老臣・平井道助(ひらいみちすけ)は、早期に上洛して義満の不信を解くように強く意見具申しましたが、もう一人の老臣・杉弘信(すぎひろのぶ)は
「将軍の意向は、もはや大内家を滅ぼすことにあります」
と主張し、上洛に猛反対しました。義弘は結局、杉の意見に同意してしまいます。
 10月27日。義満の使者である絶海中津が大内義弘と面会しました。真意を問いただす絶海中津に対し、義弘は涙ながらに
「これまで私は、九州平定、山名家との戦い、南北朝合一と三種の神器の帰座、少弐退治など様々な功績を挙げて来ました。これほど忠義を尽くしているにもかかわらず、将軍は密かに少弐・菊池に通じて大内家の討伐を命じておられます。さらに弟・満弘の遺児に恩賞を与えようとされませんし、私の紀伊・和泉の守護職も取り上げようとなさっています。私を京に呼び寄せて討ち取ろうとしたとの情報も得ています。なぜかくも私は将軍に疎まれているのでしょうか」
と訴えました。絶海中津は
「少弐に対して大内討伐の命令など出していない。それは少弐家が九州で兵を集めるために流した流言である。また、満弘の遺児に恩賞を与える用意はあり、そなたの上洛を待った上で行おうとしていたのだ。紀伊・和泉の守護職を取り上げようとか、そなたを討とうといった話は一切出ていない」
と必死に説得を試みます。

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