日本人の物語00595【鎌倉前期】実朝の公家志向
建仁3(1203)年9月7日に征夷大将軍に任ぜられた千幡は、10月8日に北条時政邸において元服の儀を行いました。名は後鳥羽上皇の命名により「実朝」と称せられました。
元久元(1204)年12月には、京から後鳥羽の寵臣・坊門信清(ぼうもんのぶきよ:1159~1216)の娘に当たる信子を正室に迎えました。実朝は12歳、信子は11歳です。北条時政としては、将軍と朝廷の結びつきを強めることで幕府の権威を高めようとしたのでしょう。
この実朝とはどのような人物だったかというと、「とにかく公家志向で朝廷にばかり目が向いていた」といった印象の強い人物です。
実朝は建永元(1206)年頃に、『新古今和歌集』を用いて本格的に和歌修行を始めました。この頃、都から源仲章(みなもとのなかあきら:?~1219)という公家を呼び寄せ、侍読(教育係)に就けて公家文化を学びました。
その実朝の詠んだ歌の代表的なものがこれです。百人一首に収録されており最も有名なものでしょう。
「世の中は 常にもがもな 渚こぐ 海人の小舟の 綱手かなしも」
(世の中は常にこのままであってほしいものだ。渚に漕ぎ出していく漁師たちの舟の綱手を見ていると、そのような思いに駆られてしまう)
これは、いかにも武家の棟梁が詠んだというような雄々しい歌ではありません。民に寄り添い、その生活を守ろうと腐心する政治家の決意表明とも受け取れる歌です。文人政治家として武芸よりも公家文化を好んだ実朝らしい歌といえるでしょう。
しかし、実朝のこのような志向は、御家人から支持されるものではなかったようです。実朝が自ら詠んだ歌をまとめて『金槐和歌集(きんかいわかしゅう)』を編んだことを、御家人の長沼宗政(ながぬまむねまさ:1162~1241)は
「当代(今の将軍)は歌、鞠をもって業となし、武芸廃るるに似たり」
と批判しており、これが多くの御家人の平均的な意見だったと思われます。
さて、そんな実朝が将軍に就任すると同時に、北条時政は政所別当と兼ねて「執権」という役職に就いたと記録されています。執権とは将軍の権限を代行して執行する役割であり、要するに将軍は傀儡となり、執権が全権限を掌握するようになったというわけです。
実朝の将軍就任時の年齢をみると、実朝が11歳で時政が65歳ですから、やはり実朝には何らの権限もなかったと考えられます。
