日本人の物語01008【南北朝前期】第三次京都合戦 忘れ物
よく長期連載のマンガなんかで、だんだんストーリーの進みが遅くなってくるケースがありますよね。ああなる事情が何となく分かってきました。稿が進むにつれて、文献の調べ方とか文章の盛り込み方が分かってきて、より一層凝りたくなってしまいます。
義詮が京を脱出した正平6/観応2/貞和7(1351)年1月15日の午後、直義党の桃井直常が入京してきました。間一髪といったところです。
丹波に向かうつもりだった義詮は、京を出てすぐの向日(むこう:京都府向日市)という場所で、こちらに向かって駆けてくる軍勢を見ました。義詮は馬を止めて
「八幡に布陣していた敵が、こんなにも早く攻めてきたのか」
と驚きましたが、よく見るとこれは尊氏・師直の率いる2万騎でした。向日といえば、現在のJRでいうと京都駅から僅か3区間の近さであり、まさに敵と目と鼻の距離で父子は合流することができたのです。
両者は再会を喜び合いますが、義詮が多くの家臣の裏切りに遭ったことを知り、尊氏は驚いたことでしょう。
第三次京都合戦で義詮を裏切った家臣は次のとおりです。
・1月10日:斯波高経
・1月14日:須賀清秀(すがきよひで)
・1月15日:千葉氏胤(ちばうじたね:1337~1365)
これだけの重要家臣が直義方に走ってしまったわけです。義詮は逃亡する須賀清秀を討とうとするも取り逃がすなど、いたずらに時間を空費してしまい、光厳上皇・光明天皇を京に放置したまま、京を離れてしまいました。幸い今回は上皇・天皇が南朝方に拉致されることはなかったのですが、
「京を脱出するときは上皇・天皇を連れていかなければならない」
という大原則を忘れるのは、武将として致命的と思われます。
大河ドラマ『太平記』では、この重大な忘れ物について尊氏が義詮をこっぴどく叱責するシーンがありました。いろいろ調べてみたのですが、どうもこのとき義詮が叱責されたとの史料は見つからず、ドラマ上の創作のようです。そもそも翌年の第四次京都合戦で、義詮は再び南朝方に京を奪われるのですが、義詮はまたもや上皇たちを放棄して京を脱出して大変な打撃を受けることとなるのです。この第三次京都合戦の時点で叱責されていれば、忘れるはずもありません。
それにしても、第三次京都合戦での忘れ物が次回に生かされなかったということは、尊氏・義詮を含め誰も上皇・天皇を放置することに問題意識を持っていないということです。そもそも北朝では上皇・天皇は全く重視されていなかったのかもしれません。
