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日本人の物語00630【鎌倉前期】承久の乱 義時追討の院宣

 承久3(1221)年5月14日。後鳥羽上皇はいよいよ行動を開始しました。流鏑馬揃え(やぶさめぞろえ)を催すと称して西国武士を集め始めたのです。流鏑馬揃えとは、乗馬しながら矢を的に射る競技ですが、実際の目的が決起にあることは明らかでした。
 上皇はさらに、幕府に味方しそうな西園寺公経とその子の実氏(さねうじ:1194~1269)を幽閉してしまいます。
 次に決起を妨げるおそれのある勢力といえば、鎌倉幕府が京に置いている機関・京都守護が考えられます。
 京都守護は大江親広(おおえのちかひろ:?~1242)と伊賀光季(いがみつすえ:?~1221)の二人で務めていました。後鳥羽上皇はまず大江親広を味方に引き入れ、続いて伊賀光季を引き込もうとしますが拒否されたため、伊賀邸の襲撃を指示します。上皇側近の藤原秀康(ふじわらのひでやす:?~1221)が伊賀邸に出撃し、追い詰められた伊賀光季は自害しました。
 翌日、後鳥羽上皇は側近の葉室光親(はむろみつちか:1176~1221)に命じて、義時追討の院宣を起案させました。上皇の決裁を得た院宣は、さっそく全国に示達されました。
 一方、三浦胤義は兄の義村に使者を送り、この使者が5月19日に鎌倉に到着しました。使者に持たせた書状には
「上皇様から義時を誅殺せよとの命を受けました。恩賞は思うがままとのことです」
と書かれ、言わば兄・義村に義時暗殺を依頼する内容でした。
 ところが義村はこの書状をすぐに義時に見せ、
「私は弟の謀反には参加せず、あなたの味方として忠節を尽くします」
と述べました。胤義は兄が当然味方してくれるものと期待していましたが、義村にその気はなかったのです。
 北条家は、義時追討の院宣が出たと知って大騒ぎとなりました。泰時は
「この度のことは朝廷に誤りがありますが、日本が王土である以上、朝廷の命には従うべきです。まずは降伏して、冤罪を弁明しましょう」
と降伏を提案しますが、義時は
「それは君主の政治が正しく国家が収まっているときの話である。君を誤らせる近臣の悪行を罰し、別の君を皇位につけても天照大神は咎めまい」
と答え、あくまでも抵抗すべきと主張します。「後鳥羽上皇本人ではなく、近臣が悪いのだ」という論理ですが、ともあれ北条家では朝廷と戦う方針が決定されました。

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