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日本人の物語01678【室町/西国/六角征伐】六角征伐総括

中世の始期、近世の始期、近代の始期、弥生時代の始期、鎌倉時代の始期と、いろんな始期が研究によって早まってきました。しかし戦国時代の始期については、従来は応仁の乱(1467)だったのが最近では明応の政変(1493)になっており、遅まっています。非常に珍しいことです。

 応仁の乱終結から明応の政変まで、つまり戦国時代の始まりまでを見てきました。
 「戦国時代」とは室町時代の後期から江戸幕府開府までを指す用語ですが、その始期については次のとおり複数の説があります。
・明応2(1493)年の明応の政変から
・応仁元(1467)年の応仁の乱勃発から
・(関東では)享徳3(1454)年12月27日の享徳の乱勃発から
 戦国時代とは「中央政府の統制がなくなったことで、全国各地で戦国大名による領地・人への一元的な支配が行われ、領土拡大のための戦闘が行われた時代」と定義できます。つまり「戦国時代の始期はいつか」を議論することは、「室町幕府はいつまで守護への統制を利かせていたか」を議論することとほぼ同義なのです。
 かつては、応仁の乱が始まると室町幕府による統制がなくなったものとされ、応仁の乱勃発こそが戦国時代の始期と考えられていました。しかし最近は9代義尚・10代義材の活動について研究が進み、幕府が一定の影響力を保持していた点を重視する意見が増えてきました。そこで最近では、戦国時代の始期を明応の政変とする意見が多数説となっています。
 さて、9代義尚・10代義材はともに将軍権力の復活を夢見て、強力なリーダーシップをもって逆賊の征伐に繰り出しました。しかし義尚は六角高頼という一守護すら征伐できずに終わり、かえって将軍の権威を低下させましたし、義材に至っては細川政元を敵に回して将軍の座を追われてしまいました。
 この2人の将軍は、人事方針に問題がありました。義尚は評定衆と呼ばれる側近を重視し、歴代将軍と比べて守護たちと会う機会を著しく減らしました。さらにひどいことに、猿楽師の彦次郎に広沢という苗字を与えて足利一門と同様に取り扱ったわけですから、これでは守護たちの理解は得られません。義材もまた、畠山政長に全幅の信頼を置いて細川政元を軽視しましたし、側近の葉室光忠を重用して取次ぎ役を務めさせた結果、守護たちの離反を招きました。
 応仁の乱で失墜した幕府の権威を取り戻すには、有力守護との宥和を図りながら急がずゆっくりと取り組むほうが良かったのでしょう。
 明応の政変以降、つまり11代義澄以降、幕府が急速に崩壊していくわけですが、その経緯は戦国時代の章で解説していきます。この後も、関東を中心とした「東国」と畿内を含む「西国」に分けて解説していきます。

この後は、将軍にとって全面的に信頼できる実力ある管領がなかなか出て来ないんですよね。そりゃあ幕府は崩壊の道を辿るしかないですね。

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