日本人の物語01193【南北朝末期】後円融天皇の権威低下
蔦屋重三郎というおよそ主人公にならなさそうな人物を主人公にした大河がこんなに面白いとは意外でした。毎週楽しみにしています。
この頃、二条良基の思惑もあって幕府の権威付けのために朝廷が利用されることがたびたびありましたが、それにしても度が過ぎるケースもありました。
例えば天授4/永和4(1378)年11月28日、義満が天皇御所に参内した際には、准后・二条良基や前右大臣・西園寺実俊らが参会し、両蔵人頭などの殿上人が内裏の門前まで義満を見送りました。この時点での義満は征夷大将軍兼右近衛大将で従三位だったはずであり、「准后」として皇后と同等の格を与えられた良基がわざわざ門前まで見送るのは過剰です。
さらに天授5/永和5(1379)年1月7日、白馬節会(あおうまのせちえ)を見物するために義満が参内した際には、より露骨な出来事がありました。宴会において、義満が天皇に盃を献上するよりも先に、後円融天皇の方が酌をとって義満に盃を渡したのです。これではまるで天皇が義満の臣下のようです。前内大臣の三条公忠は、日記『後愚昧記』に
「未だ此の如き例を聞かざるものなり」
と記しています。
1月29日には後光厳上皇の祥月命日の儀式がありましたが、興福寺の僧たちは例の十市遠康の討伐を幕府が未だ行っていないことに不満を持ち、こぞって欠席するという挙に出ました。こうして後円融天皇の権威はますます低下していきました。
幕府にとっては絶頂期ともいえる状況ですが、九州では島津の寝返りにあった了俊が未だ苦戦していました。3月1日から3日にかけて都城(宮崎県都城市)で行われた蓑原合戦で、了俊の子・今川満範が島津氏久に敗れたのです。
元々の了俊の作戦では、島津氏久を牽制するために大隅国の一揆勢・禰寝久清と組んだのでした。その一揆勢が機能しなかったからこんなことになったのだと考えた了俊は、禰寝久清宛てに
「そなたらの中に油断があったのではないか」
と責める書状を送っています。しかし、禰寝と島津の双方に所領を安堵する約束をしていた自らの二枚舌について謝罪する姿勢は見せていません。
さらに了俊は
「自分はただ、一揆の人々の将来を良きものとするために協力する所存である」
と記して書状をしめくくっています。この書状を受け取った禰寝方はどんな思いを抱いたのか記録はありませんが、ひどく苛立ったことでしょう。事実、この6年後には禰寝氏は了俊を裏切り、南朝方に身を投じることとなるのです。
