日本人の物語00398【平安後期】待賢門院璋子の死
康治元(1142)年、鳥羽上皇は出家しました。これ以降は鳥羽法皇と称します。
この年、謀略によって崇徳天皇を追いやった美徳門院得子は、更に権勢を高めていきました。得子の次なる標的は、愛する鳥羽を苦しめた待賢門院璋子でした。
ある日突如として、璋子付きの女房が「美徳門院得子を呪詛した」との罪で逮捕されます。璋子はこの呪詛事件を主導したとの噂が広まり、出家に追い込まれてしまいます。恐らく、得子による璋子追い落としのための陰謀であろうと考えられます。
落飾から3年後の久安元(1145)年8月22日、待賢門院璋子は失意のうちに44歳で死去しました。当時としては40代での病死は珍しくありませんが、得子の陰謀により政治的に抹殺されたことによる精神的ストレスが影響したのかもしれません。
璋子の死を受けて、鳥羽法皇は仏具を打ち鳴らしながら大声で泣き叫んだといいます。鳥羽法皇からすると、憎き祖父と密通した妻ではありますが、憎いのは祖父であって璋子への愛情は変わらなかったのですね。
一方、璋子の子である雅仁親王は50日に渡って泣き続けたといいます。雅仁親王はそもそも奇行で知られる人物ですからさもありなんといった印象ですが。
さて、待賢門院璋子といえば、ドラマなどでは、貞操観念が希薄で天真爛漫な美女として描かれることが多いようです。幼い頃から白河法皇に弄ばれながら育てられ、貞操観念や善悪を知らないまま成長してしまったため、鳥羽天皇から不倫を糾弾されても不倫の意味が理解できなかったというのです。
そういえば、大河ドラマ『平清盛』においても、檀れいが演じる璋子はサイコパスのような気味悪さと美しさを併せ持つキャラクターとして描かれていました。
一方、鳥羽天皇はひたすら振り向いてくれない璋子を慕い続けた生涯を送ったといってよいでしょう。なぐさみに美徳門院得子との間にも子(近衛天皇)をもうけましたが、鳥羽の気持ちは最初から最後まで璋子を恋い慕っていたのではないでしょうか。それ故に、得子は躍起になって、最後は謀略により無実の罪を着せてまで璋子を失脚させたと考えられるのです。
璋子のサイコパス的なキャラクターはさすがにフィクションだとしても、いずれにせよ、鳥羽と崇徳の確執も、得子と璋子の確執も、全ては白河法皇の倫理にもとる行為から始まったものであり、白河法皇の罪は重いと言わざるを得ません。
この皇室内の確執に加え、摂関家・平氏・源氏内のお家騒動が大きな戦乱へとつながり、武士の時代が始まるきっかけとなっていくのです。
