日本人の物語00488【平安末期】源義経登場
いよいよ、源平合戦最大のヒーロー、源義経(みなもとのよしつね:1159~1189)を紹介すべき時が来ました。
前述のとおり、義経は平治元(1159)年に源義朝とその愛妾・常磐の三男として産まれました。幼名は「牛若」です。誕生したその年の暮れには父・義朝が平治の乱で敗北し、まもなく殺害されます。
常磐は清盛の妾となり、三人の子は出家するとの誓約で助命されました。このとき、6歳の今若は醍醐寺に、4歳の乙若は園城寺に引き取られたのですが、0歳の牛若は幼すぎることから、常磐の手元に残すことが許されました。牛若はそのまま11歳まで母の元で育つこととなったのです。歴史小説の中では「牛若は親の仇である清盛を、実の父と勘違いしていた」と描かれるケースが多いのですが、さすがに創作でしょう。
この間、常磐は清盛の妾とされていましたから、幼い牛若には時々清盛の姿を見る機会があったと考えられます。父の仇敵が母のもとへ出入りするところを、一体どのような思いで見ていたのか興味は尽きませんが、この頃の牛若の考えや言葉は残っていません。
11歳になったとき、いよいよ牛若は鞍馬寺に預けられます。この頃から牛若は遮那王(しゃなおう)と名乗り、仏道修行に身を投じつつも、なかなか出家しなかったといいます。平家の全盛期ですから、まさかこの少年が将来平家を脅かす存在になるとは夢にも思わず、平家方の監視が行き届いていなかったのかもしれません。
鞍馬寺で遮那王は天狗から剣術を習ったという伝承があります。また、室町初期に成立した『義経記』によれば、鬼一法眼という伝説的な兵法家から兵法や剣術を学んだともいいます。鬼一法眼は妖術を使いこなす神がかった人物として知られており、大河ドラマ『義経』では美輪明宏による怪演が好評でした。
この後の義経の軍神のごとき大活躍からいろいろな空想が広がって、こうした幼少期のエピソードを生んだのでしょう。
承安4(1174)年。15歳になった遮那王は、僧になることを拒否して鞍馬寺を出奔しました。一説によると、平家に命を狙われたため都を出ざるを得なかったといいます。頼った先は、奥州平泉の実力者にして鎮守府将軍の藤原秀衡でした。
遮那王は、平泉までの逃避行のさなか、父・義朝の死んだ尾張国において、烏帽子親を持たずに元服しました。本来、元服とは烏帽子親から烏帽子をもらい受けて行うものであり、せっかく秀衡のもとに身を寄せるのであれば秀衡を烏帽子親に元服するのが筋なのでしょうが、まだ会ったこともない秀衡がどこまで信頼できる人物か分からない中で、烏帽子親という重要な役目を依頼するわけにいかないと思ったのでしょう。そこで遮那王は「義経」の名を自ら付け、源義経と名乗るようになります。
