見出し画像

日本人の物語00762【鎌倉末期】尊良親王と御匣殿

 後醍醐天皇の隠岐配流のエピソードを記してきましたが、天皇の長男・尊良親王の土佐配流についても『太平記』はこんなエピソードを記しています。
 時は遡り、尊良親王の元服の頃の話になります。尊良親王は学問もでき、容姿も優れていたため、きっと皇太子になるだろうと周囲の者たちは噂し合っていました。ところが鎌倉幕府は予想外にも邦良親王を立太子させてしまったため、目標を失った尊良親王は詩歌や管弦に明け暮れる日々を送るようになりました。
 そんなある日、殿上人が集まって絵合わせを行ったときに、洞院公賢(とういんきんかた:1291~1360)が披露した源氏物語の絵で、美しい女人が琵琶を奏でる絵がありました。尊良親王はこの絵の女性に恋をしてしまいます。
 絵の中の架空の女性への恋が実るはずもなく、失意に暮れていた尊良親王でしたが、あるとき散歩中に琵琶の音に誘われて家の中を覗き込むと、なんとあの絵にそっくりな女性が琵琶を弾いていました。その女性は右大臣・西園寺公顕(さいおんじきんあき:1274~1321)の娘で、御匣殿(みくしげどの:?~1331)と呼ばれていました。
 尊良親王は御匣殿に夢中になって、たびたび手紙を出すようになります。御匣殿は当時、徳大寺公清(とくだいじきんきよ:1312~1360)と婚約していたのですが、尊良親王の恋を聞いた徳大寺公清は「殿下が気にかけている女人となぜ婚姻などできようか」と述べ、すぐに他の結婚相手を探すようにしたといいます。元からこだわりがなかったのでしょう。
 その後、尊良親王は御匣殿と結ばれますが、倒幕計画が発覚したことで尊良親王は土佐に流されてしまいます。夫を失った御匣殿はふさぎ込んでしまいますが、周囲の薦めもあって土佐へと向かいます。途中、海賊に襲われながらもどうにかこれを切り抜けますが、今度は嵐で舟が難破して鳴門(徳島県鳴門市)に行き着いてしまいます。土佐に行く方法がなく、御匣殿は鳴門で数年を無為に過ごします。
 一方、尊良親王のもとには御匣殿が土佐に向かったとの情報は入っていたものの、なかなか来ないので不安になっていました。たまたま警護の武士が
「鳴門のあたりで船の舵に女の衣が引っかかった。取り上げて見ると高貴な方のもので、おそらく高貴な女人が嵐に遭って海に沈まれたのだろう」
と噂をしているのを聞き、親王がその衣を取り寄せると、御匣殿のものに間違いありません。親王は御匣殿が海に沈んだと確信し、涙を流しました。
 しかし、幕府滅亡後に尊良親王と御匣殿は京に戻ってお互いの無事を知り、ようやく再会することができました。
 これだけ波乱万丈の恋を送った二人でしたが、この二人が幸せな生活を送れた時期は非常に短かったようです。尊良親王はこの後、金ヶ崎城(福井県敦賀市)で悲劇的な最期を迎えることとなるのです。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集