日本人の物語01433【三山】三山時代総括
本州に比べて1チャプター当たりの内容量が少ないですね。まあ仕方ないですが。
沖縄の神話から宣徳4(1429)年の琉球統一までを見てきました。ただし本稿の元にしたのは、
・中山世鑑: 1650年成立
・中山世譜: 1701年完成
・球陽: 1745年完成(その後も追記)
といった琉球王国の正史ですから、王朝にとって都合の良い歴史に過ぎません。
史書では、「天孫王朝→舜天王朝→英祖王朝→三山時代(察度王朝・怕尼芝王朝・大里王朝)→尚巴志による琉球統一」の順に進んできましたが、一体どこまでが伝説でどこからが史実とみるべきなのでしょうか。
歴史家の多くは、「英祖王朝までは存在自体怪しい」とみているようです。というのも、
「英祖王朝4代国王の玉城が政を顧みなかったために、統一されていた琉球が3ヶ国に分裂した」
という記述自体が、尚巴志の琉球統一事業を正当化するために作られた可能性が高いためです。真実は逆で、多くの按司たちがひしめき合っていたのが徐々に統一されて3ヶ国に収斂していったものと考えられるのです。
日本も、漢書地理志が語る1世紀の日本は百余国に分かれて争っていたのが、3世紀には邪馬台国連合という大きな枠組になり、5世紀には関東や九州にも鳴り響く大和朝廷に成長していたわけで、琉球も世界各国と同様の道筋をたどるはずだというのが歴史家の考えです。
察度王朝以降の歴史は、いかにも伝説的エピソードの類や善悪の評価については眉唾物ですが、「いつ、誰が誰と戦い滅ぼしたか」という事実ベースでみていくと、大筋は史実通りと思われます。
ただ、明の強い影響下にあった琉球王国の役人が編纂した歴史書ですから、評価が偏ったり事実が誤認されたりすることは一定程度あり得ます。例えば北山王国滅亡の時期については、『中山世譜』の中でも
・志多伯天将(したはくてんしょう:1646~1725)が編纂した版では永楽20(1422)年
・蔡温(さいおん:1682~1762)が編纂した版では永楽14(1416)年
となっており、誤差があります。これは、北山王国が最後に明に朝貢したのが永楽14(1416)年であり、蔡温が「国が存続しているなら毎年朝貢するはずだ」と考えたために生まれた誤差と考えられます。実際には北山王国は永楽20(1422)年まで存続したものの、途中で明への朝貢をやめたのでしょう。
さて、琉球は統一されたものの尚巴志の死後にまたまた内紛が起こり、第一尚氏王朝は意外に早く途絶えてしまいます。そのあたりの歴史は次章でまとめたいと思います。
混乱はまだ続きます。戦乱を終わらせるのはいかに難しいのか、つくづく思い知らされます。
