日本人の物語00745【鎌倉末期】唐崎浜の戦い
延暦寺の僧兵たちは、唐崎浜で六波羅勢と激突しました。
六波羅方の海東左近将監(かいどうさこんしょうげん)が、
「敵は小勢だぞ。後ろから次なる兵がやって来る前にやってしまえ。続け者ども!」
と叫ぶや、三尺四寸の大きな太刀を抜き放ち、馬上から敵3人を斬り伏せました。
ところがそこに、延暦寺の快実(かいじつ)という荒法師が、二尺八寸の長刀を振り回しながら躍りかかりました。大男同士の対決です。海東左近将監は快実と互角に渡り合っているように見えましたが、バランスを崩したところへ快実の長刀が突き刺さり、あっけなく討ち取られてしまいました。後に朝廷では
「最初に倒した武士の苗字に『東』が入っているとは幸先がよい」
と話題になったそうです。朝廷では幕府のことを「関東」とか「東(あずま)」などと呼んでいたのでしょうね。
海東左近将監を討ち取って上機嫌になっていた快実に対し、遠巻きにしていた見物人の中から髪を結った少年が走り寄ってきました。快実は驚き「このようないたいけな子供を相手に戦うわけにいかぬ」と無視を決め込みましたが、少年はなおも快実に襲いかかってきます。快実がやむなくこの少年の相手をしようとしたところに、他の者が矢を射かけ、少年は矢に胸を射抜かれて死んでしまいました。
この少年は、海東左近将監の嫡子・幸若丸(こうわかまる)でした。戦闘に加わることを父に止められたものの、父を思い慕って追ってきていたのでした。
この幸若丸の死に様を見て、海東の家来たちは奮い立ちました。家来36騎が
「主人の首を取り返せ」
と叫んで戦い始めましたが、快実は
「敵の首でなく味方の首を欲しがるとは」
と嘲笑し、家来たちをも次々と打ち破りました。
こうして土地不案内な六波羅勢は、狭い道で次々と延暦寺方から矢を射られ戦死し、残った兵たちも撤退していきました。
勝利に喜んだ僧兵らは、
「もう安心だ。西院にいらっしゃる帝を本院にお移ししよう」
と言い、天皇の行列を誘導しましたが、そこにふと吹いた風で御簾が吹き上がり、なんと乗っていたのは後醍醐天皇ではなく花山院師賢であることが露見してしまいます。
僧兵たちは呆れ果てて護衛をやめ、完全に戦意を喪失し、尊雲法親王からも気持ちが離反してしまいました。尊雲法親王と花山院師賢は「囮作戦はここまでか」と諦め、比叡山を降りて笠置山へと向かいます。
