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日本人の物語01603【室町/東国/長尾景春の乱】長尾景春登場

長尾景春、なぜ嫌われ者だったのかこの時点ではピンと来ませんが、徐々に性格に難がある人物であることが分かってくると思います。

 文明5/享徳22(1473)年6月23日。長尾景信が60歳で死去しました。山内上杉顕定は19歳、扇谷上杉政真は22歳と、両上杉の当主が若かったため、長尾景信が上杉軍の事実上のリーダーだったわけですが、そのリーダーが不在となったのです。
 6月27日付けで越後上杉房定が配下の武将らに
「急な関東への出陣に備えよ」
と書状を送った記録があり、景信死去を機に成氏方が攻めてくる可能性を考慮したものとみられます。景信はそれほどに影響力の大きい人物だったのでしょう。
 ちなみに長尾家は上杉家と同様、いくつもの分家に分かれています。上杉家は山内上杉家がトップ、扇谷上杉家がナンバー2ですが、長尾家では
・白井(群馬県渋川市)を拠点とする白井長尾家が山内上杉家の家宰職(トップ)
・惣社(群馬県前橋市)を拠点とする総社長尾家が武蔵守護代(ナンバー2)
を務めてきました。
 景信が死去した時点で、
・景信嫡男の長尾景春(ながおかげはる:1443~1514)が白井長尾家の当主
・景信の弟の長尾忠景(ながおただかげ:?~1501)が惣社長尾家の当主
でした。景春は当然自分が家宰職を継げるものと期待していたところ、思わぬ決定が下りました。山内上杉顕定が、忠景を家宰職の後継に指名してしまったのです。
 どうも景春はかなり癖の強い性格だったらしく、両上杉家から嫌われていたようです。そのため、上杉家家臣の寺尾礼春(てらおらいしゅん)と海野佐渡守(うんのさどのかみ)が顕定に働きかけ、このような決定が下されたらしいのです。
 この決定を知った太田道灌は景春に同情しました。道灌は長尾景仲の娘(つまり景春の叔母)を娶っていた縁で、景春と懇意だったのです。道灌は寺尾礼春に
「確かに景春には家宰としての器量はないが、父祖の功績もあるのだから、せめて武蔵守護代には任命してやってほしい」
と意見具申しました。つまり忠景をトップに据える代わりに、景春をナンバー2に据えてやるべきだと主張したのです。
 しかし、結局忠景は家宰と武蔵守護代を兼ねてしまうこととなりました。これまでこの2つの職を兼ねた人物はおらず、これでは景春ならずとも不満を抱くのは当然でしょう。
 以上の経緯をここでは簡単に説明してしまいましたが、実際には忠景の家宰及び武蔵守護代への就任は1年以上かけて行われたことのようです。家宰職継承を期待していた景春は、徐々にその期待を裏切られていったのです。

景春に同情的なのは道灌だけなんです。その道灌が景春の乱を鎮圧することになるとは、実に皮肉です。

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