日本人の物語01301【室町/義持期】貞成の冤罪①毒殺疑惑
「貞成の冤罪」シリーズは④まであります。お楽しみに!
伏見宮家はたった3ヶ月のうちに栄仁親王、治仁王と2代続けて当主を失いました。
まずは治仁王の葬儀を執り行わねばなりません。伏見宮家では先例のとおり大光明寺で葬儀を行おうとしますが、大光明寺は
「今は『無為大慶の時分』であるから、葬儀について将軍の了解を得るのが忍びない状況である。葬儀は内々に蔵光庵で行っていただけないか」
と述べ、拒否してきました。つまり上杉禅秀の乱の後処理をせねばならず、幕府は重臣たちの処分をどうするかでバタバタしているところだから、煩わせたくないというわけです。もし伏見の蔵光庵で葬儀を行うのであれば、洛外だから幕府の許可は不要となります。貞成王はあまりの仕打ちに憤りながらも、受け入れざるを得ませんでした。
応永24(1417)年2月15日。治仁王は蔵光庵で荼毘に付されました。
2月17日に収骨が行われるところ、故人の妾である上臈局がにわかに産気づき、大急ぎで産所となる庭田家へと退出していきました。産まれたのは女子でした。治仁王の子は3人とも女子となり、これで貞成王の伏見宮継承が決まりました。貞成王はこの日の日記に
「私のような暗愚な身が宮を相続するとは、思いもかけないことだ」
と記しています。
そして2月18日、貞成王は驚くべき噂を耳にします。側近が語るには、貞成王が兄を毒殺したとの噂が流布されているというのです。
確かに兄が倒れたとき、貞成王は兄と二人きりだったわけで、怪しまれても仕方ありません。しかし、この時点で凋落著しい伏見宮家を継いだからといって天皇の位が回ってくるわけでもないので、貞成王が兄を殺して当主になることにさほどの利益はありません。
また、看聞日記を読んでいると、貞成王の引っ込み事案で愚痴っぽく、内気な人柄が見えてきます。兄が博打三昧だと愚痴り、兄毒殺の噂に苦しみ、兄の葬儀を拒絶されて悔しがりながらも抗議できずにいる貞成王は、とても兄を毒殺して当主の座を奪うような謀略家には見えません。ちなみにこの日記は、酒を飲みまくった日の夜に「断酒は明日からにしよう」と書いたり、臣下が断酒したと聞いて「どうせ続かないだろう」と書いたり、現代人が見てもなかなか面白い代物です。
詳しくは後述しますが、貞成王はこの毒殺疑惑以外にも
・応永25(1418)年7月に称光天皇の女房と不倫し妊娠させた疑惑
・応永32(1425)年8月に称光天皇を呪詛した疑惑
などが噂されることとなり、その度にびっくり仰天して必死に疑惑を打ち消そうとしています。日記を読むと「これは無実の人の驚き方だな」と思える内容であり、とにかく運の悪い人だったことが読み取れます。
貞成親王については横井清『室町時代の一皇族の生涯』(講談社学術文庫)が最高に面白いので、是非興味がある人はご一読ください。
