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日本人の物語00486【平安末期】法住寺合戦

 この後、義仲と後白河法皇の関係はみるみる悪化していきます。
 義仲は後白河法皇に謁見し、
「勝手に頼朝に宣旨を下されたのは、私にとって生涯の遺恨である」
とまで述べ、牽制を加えました。あの寿永二年十月宣旨のことです。しかし後白河は全く懲りる様子を見せません。
 この頃、院近臣であった平知康(たいらのともやす)が義仲を訪問しました。義仲の家臣らの横暴に苦言を呈するためでした。恐らくは後白河からの命を受けてのことでしょう。この平知康は鼓の名手として知られ、「鼓判官(つづみのほうがん)」の名で呼ばれています。
 ところが、義仲は後白河のいわば名代としてやって来たはずの平知康の話に全く関心を示さず、
「鼓判官というは、よろずの人に打たれたか、張られたか」
などと言って笑い転げました。人に打たれたり張られたりする名前だというのです。
 知康は後白河法皇に対し、
「義仲は今に朝敵となるでしょう」
と言って、早い段階で討ってしまった方がよいと進言しました。
 寿永2(1183)年11月17日。後白河法皇は義仲に不信を示し、ある意味で宣戦布告とも取れる命令を下しました。
「平家を追って西下せよ。京に留まるならば謀反とみなす」
というのです。
 この挑発に乗ってしまった義仲は、11月19日、兵を率いて後白河の住む法住寺殿を襲撃しました。火をかけたため、630人もの死者を出したといいます。これを法住寺合戦といいます。
 清盛も同様に法住寺殿を襲って後白河法皇を幽閉したことがありましたが(治承三年の政変)、その際には三男・宗盛を送り込んであくまでも慇懃に法皇を移らせたのに対し、今回の義仲のやり口は完全な合戦でした。神をも恐れぬ所業です。
 ちなみに後白河法皇が幽閉されるのは、平治の乱、治承三年の政変に続き3回目です。法皇にとってはもう手慣れたものかもしれませんね。
 このような勝手を、鎌倉の頼朝が許すはずがありません。いよいよ事態は
「京の木曽義仲、東国の源頼朝、西国の平宗盛」
という三国志のような状況となってきました。
 ここに、誰からも相手にされない独自勢力である源行家や、武家勢力同士を衝突させて漁夫の利を得ようとする後白河法皇が絡んできて、事態はさらに複雑になっていきます。

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