日本人の物語01158【南北朝後期】前期倭寇の横行
倭寇のお話です。「寇」は「元寇」「倭寇」「刀伊の入寇」「応永の外寇」の4つでしか使わない漢字ですね。
話題が飛びますが、ここで外交関係について取り上げておかねばなりません。
正平21/貞治5(1366)年9月23日。元の命令を受けた高麗の使者17人が出雲に入港してきました。その使者はこんな国書を携えていました。
「我々は日本と水路を接している国であり、貴国の人間が嵐などで遭難した際には、しばしば道理に従って助けているところである。
しかしここ十年ほど、貴国の海賊が当国を襲撃している。合浦(現在の韓国慶尚南道馬山市)などにやって来て役所を焼き、人民を混乱させているだけでなく、時には殺害にも及んでいる。貴国の国民が法令を破り、貪欲に振る舞っているのである。
今回、貴国に文書にて要請する。貴国の責任において各島々に住む住民を統治し、このような悪事をやめさせるべきである。以上、文書にて返答を求める」
確かにこの頃、四国や九州を拠点とする海賊が朝鮮半島の町を襲撃し、略奪するという行為が盛んに行われていました。これを「倭寇(わこう)」といいます。
なお、倭寇には14世紀に行われた「前期倭寇」と16世紀に行われた「後期倭寇」とがあるのですが、ここで元・高麗が言及しているのは前期倭寇のことです。前期倭寇においては、犯行グループは主に北九州・四国を本拠とした日本人と考えられており、高麗王朝の滅亡を早めた一因ともいわれています。
なお、後期倭寇においては「倭」と呼ばれつつも実際には明に拠点を持つ者が多かったと考えられています。
鎌倉幕府倒幕に始まった南北朝動乱が長期に及び、人々が飢餓にあえぐ中で他国の財宝を奪おうとする者が現れるのは必定でしょう。こうした犯罪をなくすには、強力に取り締まるか、あるいは戦を早く終わらせて法治主義を根付かせる必要があります。
しかし幕府はいずれの手段も取りませんでした。
「四国や九州の海賊を取り締まるのは難しい」
ということで、返書すらしなかったのです。ただ、国際的な非難を浴びたことをさすがにまずいと感じたのか、来訪した高麗の役人たちには十分な土産を持たせて丁重に送り返したといいます。
太平記はこの国書について、
「国家の統治力が弱っているからこのような犯罪が起こるのだ。このような有様では、他国からの侵略を受けるおそれもあるのではないか」
と嘆いています。
