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日本人の物語00536【鎌倉初期】西行の生涯 出家と奥州下向

 文治2(1186)年8月15日。西行(さいぎょう:1118~1190)が頼朝に謁見したとの記録が吾妻鏡に残されています。西行・頼朝の会見を取り上げるに当たって、歌人・西行のプロフィールを紹介しておきましょう。
 西行は北家藤原氏の分家に産まれ、俗名を佐藤義清(さとうのりきよ)といいました。保延元(1135)年に左兵衛尉(左兵衛府の第三等官)に任ぜられ、さらに鳥羽法皇から北面の武士として雇用されていたようです。平清盛と同僚として働いていたわけですから、この頃から清盛と面識があったと思われます。
 保延6(1140)年10月、原因不明ですが義清は「この世の無常を感じた」と言って妻子を捨てて出家し、西行と名乗るようになりました。
 出家時のエピソードとして、衣の裾に取りついて泣く4歳の子を縁側から蹴落としたとの話があります。ひどい話ですが、仏教界では「仏に仕えるにはそのくらい思い切る必要があるのだ」という教えとして広まっているようです。
 出家時に詠んだとされる歌がこれです。
「惜しむとて 惜しまれぬべき この世かな 身を捨ててこそ 身をも助けめ」
 身を捨てることこそが、自分を助ける方法だという逆説ですが、何が原因でこういう境地に達したのか気になりますね。研究者の間では失恋説、友人急死説などがあるようです。
 30歳になった頃、西行は奥州に長旅に出ました。このとき、大磯宿(神奈川県大磯町)でこの歌を詠みました。
「心なき 身にもあはれは しられけり 鴫(しぎ)立つ沢の 秋の夕暮れ」
(私のように、風流を解する心を捨てたはずの出家の身であっても、しみじみとした趣は自然と感じられるものだ。鴫が飛び立つ秋の夕暮れを見ているとそう思われる)
 この歌は新古今和歌集に収められ、「秋の夕暮れ」を歌った3首(いわゆる三夕)のうちの一つとして有名になりました。
 この歌を詠んだ地は鴫立沢(しぎたつさわ)と呼ばれ、寛文4(1664)年にはここに「鴫立庵(しぎたつあん)」という俳諧道場が建てられました。この道場は今も営業されています。
 そして治承4(1180)年頃、伊勢国に移り住み、伊勢神宮に参拝して歌った歌は、日本人の宗教観を表す歌として有名です。
「何事の おはしますをば しらねども かたじけなさに 涙こぼるる」
(どのような神がいらっしゃるかは知らないが、恐れ多さとありがたさで一杯になり涙がこぼれてくる)
 祭祀されている神の名など知らなくても、神社を見れば自然と畏敬の念を抱くという日本人らしさが歌われています。

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